パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

虫歯

2017年11月14日 18時55分33秒 | 徒然なるままに

突然歯が欠けた
左上のホンのちょっとの小さな部分だけ
でも欠かた部分をどうしても舌で触りたくなる
欠けてる部分を触るとどことなく気持ちいいような、、、
5分おきくらいに触って、とにかく気になって仕方ない
最初は大勢に影響ないから放っておこうとしたけれど
しばらくするうちに歯医者に行こうと決めた

歯医者さんは近くにあるのだが、いつも予約で混んでいる
それはわかっているが、仕方ない飛び入りで、読みかけの本を持参で出かけた
待つこと約一時間、短くはないがそのおかげで本はよく読めた(孤独な群衆)

はあー、虫歯が深いところまでいってますね
ここは、痛くないですか  
痛くない、、、神経までやられてますね、、それに歯周病もちょっと、、、

あれ、歯周病は前回(一年くらい前に薬も飲んで大丈夫だと思っていたのに)
治療したはずなのに、、、

これは、深くまでいきすぎてるので異物を詰めるわけにもいかず
周囲の歯に影響があるかもしれないので、抜かなければならないかもしれませんね、、

そんなのが嫌だったから朝晩歯を磨いていたのに、、
つい愚痴が出そうになる
そう言えば少し前に帰省した妹も
歯は自信があったのに歯医者に行ったら虫歯だらけでショックだった、、
なんてこぼしてたのを思い出した 、、

仕方がないか、年をとればこういうことになるのだな、、
あまり認めたくないけど、実感せざるをえないような、、最近こんなのばっかりだ
目がしょぼい、スタミナがなくなっている、直ぐに酔ってしまう、早く眠くなる、、
これからはいろんなことが「加齢」の一言で片付けられそうだ
昔は「ストレス」の一言だったのに、、 

次の歯医者は28日の予定
抜かずに済めば良いのだが、、 

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「冬の旅」

2017年11月12日 08時24分35秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

先日、生ゴミを出しに指定場所に出かけた時、二羽のからすを見かけた
その刹那、シューベルトの「冬の旅」の中の「からす」の一節が頭に浮かんだ

Eine Krähe war mit mir
Aus der Stadt gezogen
Ist bis heute für und für
Um mein Haupt geflogen

比較的覚えやすいドイツ語で、この部分だけは覚えている(ここしか覚えていない)
そしてメロディも歌いやすい
その日の夜には「冬の旅」のレコードを聴こうとその時に決めていた 

夜に棚から引っ張り出してきたのが

ハンス・ホッターの歌ったものだ

実は「冬の旅」はそんなに聴く気になれない曲だ
シューベルトはあまり好きじゃないとか、作品が好みでないとか、出来が悪いとか、歌手に問題があるとか、、
そういったものではなくて、聴かない理由は「落ち込む」からだ

音楽を聴いて落ち込む
そういったことはあるもので、何十年も前にこのハンス・ホッターの歌う「冬の旅」の全曲を
聴き終えた時は、ひたすら疲れた記憶がある
ハンス・ホッターの歌はモノトーンの音色で、何か気の利いた演出があるわけでもない
ただ淡々とあの深い声で歌うだけ、ただそれだけ
しかし、その淡々と当たり前に歌われる歌が終わりの方になるに連れ「孤独」というものが
一種の狂気じみたものとさえ感じられ、救いのないような気分させられた
この記憶があるために安易に聴こうという気にはなれないでいた

全曲のなかには長調で書かれたホッとするような曲もある(菩提樹・春の夢)
でも直ぐに短調に傾き、この2つの対比がハンス・ホッターの歌では
明瞭でないため(フィッシャー=ディースカウは音色変化がもっとある)
どうしても基本となる暗さの印象が強く残る

曲を通して聴いた絶望感
音楽体験が楽しいものばかりではないことを実感したわけだ
それでレコードジャケットを見るたびに、あの「絶望感」が頭をよぎり
どうしても避け気味になっていた

ようやく聴く気になったハンス・ホッターの「冬の旅」
いざ聴いてみると、今度は少し違った印象をもった
以前より人生経験を積んだせいもあるだろうが、この孤独感にも耐えられるような気がしたのだ
これも耐えなければならない試練の一つ、、、みたいな
今は少しばかり客観的に見られる(聴けれる)ようになっていた
こうして比較すると若い時の落ち込むほどの聴き方・感じ方というのは
ある意味たいしたものだと少し呆れてしまう
その時は全身全霊で何かを感じていた

しかし、そのように全身全霊で何かを感じることは時間とともになくなっていく
感じることのかわりに、考える事から得られるものが優先的になっていく
そしてそれが当たり前になっていき、それが知恵といわれるようになっていく

若い時の(もしかしたら今で言うVRに近い)聴くことによって得られた体験は
単なる聴いたという経験では収まらない事になっている(少なくとも自分の中では)
この「冬の旅」以外にも、カール・リヒターの指揮する「マタイ受難曲」の中で
キリストが息絶える場面には、まるで自分が刑場にいたような錯覚を覚えて
口の中も、喉がからからになった
おそるべき思い込みとか想像力、いまならそこまでいくことはないので多少の羨望感をもって
過去を振り返ってしまう

今になって「冬の旅」はようやく普通に聴けるようになっているかもしれない
でも、昔感じた「絶望に近い孤独感」の記憶は消えることはない(だろう)
何度も聴く気にはなれなくてもこのハンス・ホッターの「冬の旅」はやはり凄い
今度聴く気になるのはいつのことだろう
(もうそんなことはないかもしれない、、でも、それでも十分だと思っている)

 

 

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ビデオ判定は好きじゃない!

2017年11月11日 08時05分39秒 | サッカー

昨日行われた日本対ブラジル戦 結果は1-3の完敗 
本田、香川、岡崎の経験豊かな連中がいない中で
どれだけやれるかが興味があったが、やはり予想された通りになった

ただ少しばかり白けたのは、ビデオ判定システム
前半の早い時間にビデオ判定によりペナルティーエリア内での吉田のファウルが取られてPK
これをネイマールがあっさり決めて、勝負への興味は一気に失せた

このビデオ判定システムは試験期間らしいが、個人的には賛成できない
最近の技術を利用するものとしてゴール判定のそれは仕方ないと思うが
時間を少しばかり遡ってのビデオによるファウル等の判定は、流れがバッサリ切られるので
集中力が(見てる方も)どうしても途切れてしまう

人間の行う審判という行為
間違いがないに越したことはないが、自分はこの人間が起こしてしまう理不尽な間違いも
サッカーを楽しむ要素だと思ったりする(選手たちはそれどころじゃないだろうが)

サッカーを無理やり人生に重ね合わせることはないかもしれないが
理不尽なことに(一時期は)耐えなければならないのが多分人の一生
サッカーはハーフタイムしか休む時間がない
アメリカ発のスポーツのようにタイムをとることが出来ない
流れとか勢いとかが一方的に片方のチームに行ってしまった時も
強引にタイムをとってそれを堰き止めることは出来ない
そういう時はどうするか
ひとつは選手交代をする(その際に少しタイムに似た効果があるかもしれない)
そしてもう一つは、耐える、ひたすら耐える 
実はここの部分が面白い
勢いに負けて崩れてしまうか、それでもギリギリで頑張るか、、
経験者は流れがいつまでも片方に行きっぱなしではなく
いずれ、自分の方にも流れが来ということを知っている
この耐えるという行為  それは攻撃にさらされるという意味だけでなく
審判の判定の理不尽さにも耐えるってところが、とても深いものにしているように思えてならない

理不尽な判定
マラドーナの神の手ゴールも、今なら伝説にもならないで終わってしまう
あれはゴールじゃない、いや審判が認めたのだからゴールだ、、
そんな結論の出ない議論(楽しみ)もないことになる

そしてどう考えても不思議なのは、その判定の理不尽さは長い時間をかけて
公平なところに落ち着きそうなことだ
イングランドで行われたワールドカップのドイツ対イングランドの戦い
イングランドの選手の放ったシュートはゴールのバーにあたり落ちたところが
とっても微妙な位置で、入ったとも言えるが入っていないとも言える
審判はここでゴールを宣言し、接戦だったゲームはイングランドの方に流れがいく

ところが、まったく同じことが何十年後に繰り返された
やはりワールドカップ(南アフリカ大会?)でのイングランド対ドイツ戦
この時もイングランドの選手が放ったシュートはゴールのバーにあたって
またもやややこしい位置に落ちた
ところが今度の判定はノーゴール(あとでビデオを見たら明らかにゴールだった)
でもこのゲームで一番記憶に残っているのは、その時のイングランドの選手の行動だ
彼らは執拗にゴールの訴えをすることもなく(多少はしたかな?)
何事も無かったかのようにゲームを続けたのだ(それは紳士のスポーツみたいな態度で)
それは、人間の行う判定、間違うこともあるさ、その理不尽さも含めてサッカー、、
と言っているように自分には思えた
そしてそれがとてつもなくカッコいい、、と感じた

理不尽な結果も甘んじて受け入れる
そしてそこから、自分のできることをひたすら真面目に行う、、
生活のかかっている選手たちにとっては、見てるだけで勝手な想像をするのは迷惑かもしれないが
そんな自分勝手な想像ができる方が、、少しばかり考えさせられることが多くて面白そう

ということで、理不尽な(と言ってもあまりに偏った笛は問題外だが)
ちゃんとした資格を持った審判の判断に任せる、、、というのは
とても人間的で、自分にとっては好ましいが、、はたしてFIFAは今後どんな結論を出すか
 

 

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不安な「弱い者いじめ」の傾向

2017年11月10日 08時14分37秒 | あれこれ考えること

あのロゼッタストーンには「今の若いもんは、、、」
と愚痴が書かれていたとかの噂がある
歳を重ねるとついつい出てきてしまいそうなこのセリフ
先日も少し出てしまったかもしれない

先の日曜日、豊橋駅前東口広場で「憲法カフェ」なる催しが行われた
文字通りお茶を飲みながら、憲法について(改正)についての情報の交換で
弁護士の方から、主婦の素人の方、雑誌の編集者、塾の講師など数人が集まって
話が行ったり来たりした

それぞれの思い込みや情報量の差で話が消化不良になってしまったのは
致し方ないとして、その時、おまけのような話題として
今の若い人の自民党支持の多さとか保守化傾向について
それは何故だろうか、、、と、ごく自然に意見交換をすることになった

今に満足していて不満はない
自民党しか知らない
それぞれが自分の生活で忙しすぎる
自民党の何かを改革するという言葉に魅力を感じてる
就職率が以前よりアップしている、、(景気が良くなっている)
割合よく聞かれる解釈が聞かれたが、ある人がポツリとこぼした言葉が記憶に残った
「今の若い人は上に抵抗するのではなく、下の弱い者をいじめる傾向にある」

そう、それ、自分が感じている違和感、それはこの言葉に集約される
自分の中では、若いもんは(若い時期の特質として)強大な強いもの(あるいは悪)に対して立ち向かい
弱い者の味方をするものだ、、と勝手に思いこんでいたし
チャーチルの「20歳の時リベラルでないなら情熱が足りない」は
どこでもいつの時代でも通用するものと思っていたので
今の日本の若者のこの傾向は少し異常に思えてくる

いじめ、ヘイトスピーチ、マスコミの正義感を装った政治家や芸能人のバッシング
非正規労働者に対する努力不足や自己責任論
ネット上の異常とも思える些細なことへの炎上
昔、ある本の帯に「自分以外はみんなバカ!」というのがあったが
若者に限らず今の時代にネット上で飛び交う他人否定の風潮は
どこかストレス発散的な印象を持つ
そしてそれらは、より弱いものを徹底的にいじめる傾向にある

だがこの日の意見交換、もう一つ実感を込めて出てきた言葉があった
「今の若い人たちは、親の年収を超えられないだろう、、と思う」
(確かこのテーマで書かれたアメリカ人の本があったはず)
この少しばかり嬉しくない現実を、若い人たちが無意識に実感として感じているとしたら
彼らははたしてどのような行動を選んでしまうのだろう

自らの努力によって、あるいはみんなで力を合わせて障壁を乗り越えていく
経済が右肩上がりの時代なら簡単にそう思えたかもしれない、
しかし、現代の「努力は報われないかもしれない」「親の経済状況がすべてを決める」と
実感する様な中では、それほどおおらかに夢を持つことは出来ない
こうした屈折した中で自然発生的に起きてしまいそうなのが「弱い者いじめ」
自分より弱いものの存在を確認し、否定し、そうすることによって自分が安心する

仮にそうだとするならば、根っこはかなり深い
他の民族、人種に対する優劣の感情、どこか理性的とは思えない勢いだけのスローガン
そうしたものが引き起こした歴史は残念ながら喜ばしいものではなかった
今は世界中が無意識的に、他の否定の方向に(弱い者いじめの方向に)進んでいないか
(少しばかりではなく)おおいに心配だ

今の若いもんは、、、と文句を言う前に、
いい歳をしたもんは何ができるか、、、考えて実行しなければいけないかもしれない
(果たして何ができるか、、、)

少し心配症のおっさんのつぶやき、、、




 

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再読したい二冊、「孤独な群衆」と「道徳と宗教の二源泉」

2017年11月09日 08時30分14秒 | 

今更ながら自分の興味があることに気づいた
それは読んだ本にも現れている
具体的には、「大衆」というものについて
「官僚(職員)という人たちの思考パターン」について
「個人の判断」について
そして「メディア」について

読んだ本と言えば(直近ではないが明らかに影響を受けているもの)
「大衆の反逆」(オルテガ)
「責任と判断」「全体主義の起源」(ハンナ・アーレント)「権力と支配」(マックス・ウェーバー)
「自由からの逃走」(フロム)「責任と判断」(ハンナ・アーレント)
「選択の科学」(シーナ・アイエンガー)「ファスト&ロー」(ダニエル・カーネマン)
「意識は傍観者である」(デイヴィット・イーグルマン)
「太平洋戦争と新聞」(前坂俊之)「戦争と新聞」(鈴木健二)「安倍政権にひれ伏す日本のメディア」(マーティン・ファクラー)

それぞれが絡み合い自分の頭の中で再構成される(いや、それは実力的に無理か)
ただ、人々が簡単に口にしてしまう「民意」みたいなものが
実は無責任な「大衆」という存在の数の多さで正当化される怖さをつくづく感じてしまう
(全体主義の起源の中にも書かれていた)
「人権」というものが当たり前に存在しないこと
異質な存在(人々)を目の前にしたとき、人はつい優劣の判断をしてしまいそうなこと
そしてその折り合いの困難なこと
ある環境下では人は「思考停止」に陥り、法的な命令に従っているに過ぎない行動をおこすこと
(その時の個人の判断は、何に従うか)
すべての責任を自ら負うのだとしたら、それほどの自由は重荷になるかもしれないということ
物事の判断の前提となる情報の認識の仕方がかなり直感に左右されること
熟慮されて間違いのなさそうな理性的な判断ですらある思い込みからなかなか抜け出せないこと
またメディアの果たす役割と、それ自体が経済的な要因に左右される存在であること
ざっと挙げてみたが、実は頭の中に存在しているのは、この様なものではなく
もっとごちゃごちゃしたやりきれない人の業のようなもので
何かしらこうして書き出したものとはちょっと違うようなところもある
 

その他にも「戦争まで」(加藤陽子)「天皇機関説事件」(山崎雅弘)等が
最近の気分に影響を与えている
ただ、あまり楽しくなさそうな本ばかりが並ぶことに驚く

昔夢中になったフリーマントルのスパイ小説やミステリーは最近ずっとご無沙汰している
読書にブレーキがかかった時は軽いミステリーが良い食前酒となるが
今はその助けはいらない感じで、読書欲は幸い旺盛だ
昔読んで、内容は覚えていないが面白かったという印象の残っている「孤独な群衆」(リースマン)
なんだかあったかい気分で読み終えられた「道徳と宗教の2源泉」(ベルクソン)
この2つは、再読したい気分だが、文字が小さくて、、困る、、

でも、挑戦してみるか、、、
途中で投げ出したら、その時は、その時、、

 

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フルトヴェングラーのレコード

2017年11月06日 10時06分25秒 | 音楽

音楽は聞き流すのもいいけれど、気合を入れて聴き込むのもいい
最近は車に乗っている時以外は、気合を入れて聴くほうが「元は取れる」などと
貧乏性丸出しの感覚でいる
音楽ソフトの値段分を楽しむには、絶対気合を入れた方が耳に入る情報量が多く
それに触発される想像力も活発化される
これはクラシック音楽に限らずジャズもロックも、多分ポップスも歌謡曲にも言える(と思う)

しかし、そうは言ってもなかなか気合を入れて聴くテンションにならないのが現実
だから、その気分になった時はそれこそ、大儲け!と思い込んでスピーカの前に鎮座する
昨日、久々にそんな気分になって取り出したのがフルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンの「エロイカ」

フルトヴェングラーマニアの人なら、この1952年のスタジオ録音のではなくて1944年の壮絶なライブを
第一のおすすめとするところだろうが、自分にとってはこの疑似ステレオの赤いレコードは
フルトヴェングラーの最初に購入したレコードで高校時代の思い出につながる

その時、運命ほど知っていなかったこの曲を聴いていたが、つい睡魔に襲われた 
なんかあまり面白くないぞ、、退屈、、、そんな気分でいたと思う
しかし、ある瞬間、その睡魔の中なのか現実の中なのか、あの有名なエロイカのテーマが
ソナタ形式の展開部とはこういうものだ、、と音楽が感情のなかにストレートに入り込んできた
エロイカのテーマは巨人が歩くように(ロマン・ロランの言うように)またある時は幻想的に
そしてこれは単なる音楽体験ではすまない予感に襲われて、一気に目を覚まし聴き終えた 

この体験はとても印象深く、再び聴いてガッカリしたら損なような気がして
しばらくは聴けずにいたし、聴くなら気分が盛り上がったときしか聴くまいと決めていた
それがようやく聴く気になって、本当に何十年ぶりに聴いた

フルトヴェングラーの演奏を聴いたあとはいつも自然に出る言葉がある
「すげーなー」がそれだ
ベートーヴェンの5番も7番も9番も、ブルックナーの8番もシューマンの4番も
シューベルトのグレイトも、トリスタンも聴いたあとは「すげーなー」」となる
そして昨日もやはり「すげーなー」」がでた
何が凄いのか、実はよくわからない、、、でも、その音の中にとても中身の濃い
ドラマというのとは少し違うが必然の流れとか、感情の深さとか、始まってしまったら
流れていくだけの音楽とか、奏者の必死でそれでいてとても幸せな瞬間とか 
そうしたものが一緒くたになって全体としての体験が襲ってくる

こんな気分になれた時は、もっと味わなければもったいない、、ということで
少し押し付けがましくて遠慮したい音楽「5番」の運命をレコード棚から引っ張り出した
1947年のベルリン・フィルライブ
1952年のスタジオ録音のウィーンフィルのも持っているが昨日はこちらではなく
ベルリン・フィルの方を聞きたい気分だった(この演奏の間のとり方を味わいたくて)
ベルリン・フィルの音は暗く重い
自ら音を出しているわけでないのに、指揮者は何故気合の入ったとしか思えないような
音の塊を作り出すことができるのか、、とても不思議だ
フルトヴェングラーの指揮する弦楽の音、緊張感を含んだ深い音、それは今の時代にはもう
再現できない音なのかもしれない
楽譜に書いてあるとおり、見晴らしがよく全ての音が聞こえるような音響
そししたものに多少感情的な好みのニュアンスが追加される
それらの今風の音とは何かが違う
もっと真正面から勝負しているような、身を削っているような、あるいは特別の人間にしか
与えられない力を発揮してるような、、

ということで、、エロイカと運命の大曲を続けて聴いたのだが、
何故か少しも長いと感じなかった
しかし確かに何かを体験したという感じ
カラマーゾフの兄弟を読んだとか全体主義の起源を読んだ時の様な
何かが心のなかに残るような感覚、、
でも、これらはまったく個人的な感覚で多分一般化出来ない
それでもこの感覚を持てるってことは、とても幸せなこと(と思う)
 

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議員さんについて

2017年11月04日 08時25分08秒 | あれこれ考えること

少ししょうもない話

最近選挙が行われたばかりの新城市
そこで、疑問に思ったのは、人は議員さんに何を望んでいるのかという点
その望んでいることを実現してくれるのが議員さんということになりそうだが
具体的に何を実行してくれる人を役立つ人と解釈するのだろうか

特に何も期待していないとか
議員さんは名前は聞いたことがあるがよく知らないとか
なんとなく地元から選ばないと損するような気がするとか、、
これらのことは当たらずとも遠からずといったところと思われる

議員さんの選挙時のスローガンは、当然のことながら少し盛っている
市民の声を届けますとか地元のために働きますとか
でも待てよ、議員さんのできることってそんなにあったのだろうか
議員さんの機能的役割は議決が主だったもので、他に議員提案の条例作成などがあり
この例では新城市では産廃に関連する施肥条例が作られた
確かにこの条例の作成は議員さんの良い役割の例と思われる
しかし、多くの人の無意識のなかに望んでいることは直接自分たちのためになること
つまりお金に関することだ(例えば道路の改修など)
ところが一番肝心な予算に関することは議員さんは提案できない(予算提案件は首長の権利)
せいぜい来年度予算を調整する時に財政課に各委員会での予算要望を提出するくらい
それで、議員さんの役割はこれくらいしか出来ないと地元に帰って説明をすると
地元の評価は、「役に立たないとか力がない」ということになる
議員さんは、そんな甘いことをしていると次の選挙には危ないこととなるし
現実的に地元への思いもあるので個人的に市の各部署に声をかけることになる
職員に対する声がけが効果を持つのは新人議員では難しいのだそうだ
少なくとも2期くらいからなんとなく声を聞いてくれるような印象を持つらしい
3期ともなれば、議員さんが声をかけておいてくれたら地域の人が話をしに行っても速やかに物事は進むらしい

結局のところ、選挙を応援してくれる人たちの議員さんに望むこととはこういった事柄で
「市全体のこと」というより「地元のこと」が優先となる
議員さんは、地域の代表か、それとも市民の代表かと問われれば表向きには
広い視野を持って市民の代表としての職責を果たすべきとされる
しかし、現実は、どうもそうではないという印象を持たざるをえない

公には市の代表を選ぶべしとされていても、果たしてその候補者がどんな人か
どんな考えを持っているか、などは人にわかるのだろうか
一応、JCが作成した各候補者のメッセージをその気になれば見ることができる
しかし、それはやはり盛った内容とかスローガンに過ぎないものも少なくない
(議員の立場でそこまで言って良いのか  と思われるものや)
それでも現職の議員さんについては、任期中の活動を見れば多少なりとも
その実力や人柄などはわかるかもしれない
ところが新人となったらまったく情報はないので、何を根拠に選んで良いのかわからない
だが新人というのは、「跡継ぎ」の場合が多い
どこどこの地区で、ある事情で立候補しない議員さんに変わる跡継ぎ候補
またある宗教団体、ある労働組合、ある政治組織、それぞれの跡継ぎ候補はそのまま
地盤を引き継ぐことになり、その人の実力や人となりは疑問でも
勝手に前の人と同じだろうと思い込み 、大した考えもなく一票を投ずることになる

上の段で、現職の議員の実力や人柄は任期中の活動でわかるはずとあっさり書いてしまったが
実はこれがなかなか怪しい
現職の議員さんの一番のメリットは「議員さんであったことの知名度」
運動会、お祭り、文化祭、防災訓練、学芸会、、、などの地域のイベントに招かれることが多く
必然的に人々の記憶に残る
だが議員さん本来の仕事としての議会活動は、一部の人を除いてほとんどの人は知らない
その一部のひとたち(熱心な市政注目者)が、その議員の働きぶりを見て圧倒的な不支持感を
(議員として失格評価)をしても、地域の人にその活動ぶりが知られていないから
選挙のときには問題無しとの判断で同じ投票を繰り返す
そして選ばれた議員さんは市民の負託を受けていると口にする
(でもそれは本当かな?) 

結局のところ、選挙のことを少し原則的に真面目に考えるとやりきれないことが多い
(この選挙というシステムで良いのだろうかとも思ったりする)
昔からあるように地方選挙でも「地盤・看板・鞄」 に左右されて、
あるべきビジョンなんてものは添え物のようで
まずは数の確保的な政権闘争的な(それ故に燃える人もいそうだが)要素が力を持つ
そしてその運動は「現実としての生活」を保証すべくリアルな思いを持つ人と
こうあるべきだとする想像の世界との戦いにもなる
(こうなると目先の利益は大きな力を持つ) 

話は変わって、福井の選挙区、あれだけのことをした(南スーダン日報問題や都議選のトンデモ発言)
稲田朋美さんを当選させたのは一体どういう理由なんだろう
個人的な山尾しおり氏の事件とは別次元でより問題ありと思ったりするが
地元の票というのは、、、どうもよくわからない(国も市も)
何故、あの議員が当選してしまうのか、、、
 

 



 

 

 

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海外旅行欲

2017年11月03日 08時40分01秒 | あれこれ考えること

京都でも馬籠でも耳にすることの多い言語は日本語以外では中国語
少し前までは爆買のニュースが巷に流れ、まさにその通りと実感したのだが
この頃は東南アジア系の言葉の増加の方が目立っている印象を持つ
(よくわからないがマレーシアとかタイとかベトナムとかの人が多そう
   身長もそんなに高くなく小柄で、着ている服の色彩の好みが日本人と少し違う)
年配の人も多いが、目立つのはやはり若い人たち
スマホを片手に日本人以上にポイントを抑えた観光をしているかのようだ

この姿は何十年前の日本人の海外(特に西欧)への憧れに似ている様な気がする
ずっと昔、1人でソビエト経由でドイツ周辺諸国を回った時、いたるところで
自分と同じようなことをしている日本人を見かけた
彼ら(彼女ら)と話してみると人口的に多いはずの東京出身者だけでなく、名前も知らない地方都市
からの人も多く、そのきっかけもどこか熱にうなされたような、実際はよくわからない
衝動のようなものに突き動かされていたような気がする 
そういう時代だった、、、今にして思うとそんな感じ

話は変わって図書館で借りた「天皇機関説事件」の本のあるところに、
西欧に出かけた人たちのその後の生き方について書かれたところがあった
誰でも異国体験をすると知らず知らず自分の国のことを考えるようになる
いろんなところで自分の国のそれと比較する
自分たちは進んだ西欧人の仲間になりつつあるというが、日本人以外の何者でもないことを否応なく体感し
ある点では圧倒的に負けている(遅れている)と実感せざるを得なくなる
ところが、ここから先の感じ方が少し分かれてくる
ある人は、それらの国でも人として似ているところを見つけ出し「みんな同じなんだ」と感じる
そして時間をかければいつかは彼らと同じ世界・秩序を作り出すことができると考える
一方、文化文明の差にショックを受けすぎた人たちは日本の良いところだけを無理やり見つけ出し
日本は特別な存在と考えて自信回復に努める
そして、自国よりはおくれていると判断される国(地域)と比較して、それらを下に見る傾向を持つ

今の日本で起きていることは、この後の部分ではないかと思えてならない
「ネトウヨ」と言われる人たちのベースになっている感じ方はこんなところにないか
若い人に保守化の傾向が目立つといわれている
厳密な意味での保守、理性万能主義ではなくて過去の知恵を踏まえた上での緩やかな改革を
求めるのではなく、単に思考停止の現状維持を願っているのではないか
接触しやすいインターネットの世界では、自分の好みの情報が存在するとことを
探り当て、それが絶対多数だと思いたがる 
結局は相対的な世界の見方が出来ていない(のではないか) 

これに関連して若者の海外旅行の減少が伝えられている
若者の絶対人口が減っているので総数が減る可能性があるが
実感として感じるのは、「海外旅行欲」の低下
経済的な二極化とか、行ったところでその後の社会活活動に役立たないとか
インターネットで情報は得られ行かなくても行った気分位なれるとか
その他いろんな理由があげられるが、一番の理由は「焦燥感」の欠如と思えてならない

若い時期の「焦燥感」は生物としての「生命力」につながると勝手に思い込んでいるが、
仮にそうだとしたらこの生命力の減少傾向は少しばかり心配だ
(田舎のおっさんが、愚痴ってもどうなるものでもないが)

若者に特有なシュトルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)の時期
そんなものは今や死語になっているのだろうか

ところで、海外旅行に1人でいって自分が実感として感じたこと
それは「なんとかなる」ということと「みんな同じなんだ」ということ
行って得たものがこんなもんでは少々もったいないが仕方ない、、
 


 

 

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人は何に左右されるか

2017年11月01日 09時52分57秒 | あれこれ考えること

ほんの思いつき

以前、マックス・ウェーバーの「権力と支配」を拾い読みして
とてもじゃないが難解で、結局のところ要約を読んでわかった気になったが
支配のパターンには(合法的・伝統的・カリスマ的)の3つがあるという

でも肝心なこと抜けていないかと思いついた(最近市の選挙があったばかりなので)  
それは誰でも容易に口にすること
つまり「お金による支配」

誰かに従うのは、法的でも伝統的でもカリスマでもなく、
自分の生活を維持するための大事なお金を確保するための手段にすぎないのではないか
だからお金を握っている人は強い(利権を持っている人・人事権を持っている人)

結局のところ金か!
では少しばかり寂しい結論なので、それに立ち向かうひとも出て欲しいと思う
計算高い人が恐れるのは多分「損得を考えない人」
ヴァーグナーのパルジファルはそういう無垢な存在の若者

世の中は「無垢なばか者 」パルジファルを待っているのかもしれない
(そう言えば、ばか者は地域活性化のキーワードだった)

 


 

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