■雪の鞍馬は美しい
雪景色を情景として辿るのは楽しいがその背景の歴史を調べるのも知識と資料の探索がまた一興という。
雪の日は貴船神社が混雑するという、いや実際には京都市も中心部が雪風舞う程度の白雪がうっすらと雪化粧されるほどの天気であっても、実は鞍馬はこんな感じです、という風景が広がります。階段はそうした中でも除雪されていますので、拝観に不自由はない。
鞍馬寺の歴史、近現代までは長らく天台宗寺院となっていました。天台宗、こう響きとともに雪煙の奥には比叡山、そして比叡山が遠望できます。こちらも市内からは毎日見上げる、しかし大津市となっています延暦寺が堂宇と信仰を広げる比叡が遠望できるのですね。
鑑禎が平安遷都より先立つ時代に開いた庵を、清水寺に所縁ふかい坂上田村麻呂と同時期に、空海とともに東寺を建立しました藤原伊勢人が一回り大きくしましたというお寺、堂宇そのものは山門である仁王門のほかは、いわれれば山頂というほかは馴染みある大きさ。
藤原南家の出身である藤原伊勢人、鑑禎が造営した毘沙門堂とともに観音堂を造営したといい、堂宇はこの頃から大きくなった、という事が理解できます。そしてもう一つ、この辺りは山岳信仰の聖地であり、いわゆる“鞍馬天狗”のような伝承と信仰にもつながる。
鞍馬弘教という信仰が成立するとともに毘沙門天と千手観世音と護法魔王尊の三尊を一体として信仰する流れが成立するのですが、鞍馬弘教は成立した時代が戦後、応仁の乱ではなく第二次世界大戦後のものとなり、近代神智学という曖昧な影響を受けているのですが。
三尊、鞍馬寺では金星より地球に降り立ち生物の進化を見届ける神という位置づけで説明されています、これはヒンドゥー教における1850万年前に金星から地球に降臨した霊的存在で人類を含めすべての生物の進化を見守るサナトクマーラという存在と、確かに重なる。
大日如来という大毘盧遮那仏は密教経典が体系化され、当時新興宗教であったヒンドゥー教との法論が為されていましたが、これが様々な経典とともに日本に伝わるころには、調和と一言で説明するに複雑な哲学を形成していました、何しろチベットと中国経由だから。
鞍馬、古名に定着した背景があったのか、近代神智学の影響から似ている地名とあやかったのかは資料探索の蓄積がなければ一概には言えないのですけれども大黒天や五大明王の信仰は、インドのヒンドゥー教との法論の頃に起源をもつ仏教の信仰でもあるのですね。
密教による山岳修験の場ともなりました鞍馬ですが、密教というものも日本に至るまでの源流をたどりますと奥深く、日本の歴史とともに哲学や価値観の複雑さというものを垣間見るようです、そもそも金剛という名前さえ、外来語となっているほどに、なのです。
金剛乗はヴァジュラヤーナ、真言乗はマントラヤーナ、日本仏教の原語はサンスクリット語なのですね。金剛という言葉は釈迦の降魔成道において説法を行った菩提樹の根元を金剛宝座というもので、これは論蔵という律蔵、経蔵とともに仏典三蔵の一つに記される。
こんごう、この名を出しましたのはヘリコプター搭載護衛艦くらま、が長年事実上の旗艦を務めた佐世保基地第2護衛隊群に配備された日本最初のイージス艦こんごう、装甲コルベット金剛や高速戦艦金剛、の由来となった艦ということで最初に連想した故なのですが。
ひえい、比叡山も護衛艦の名前になっていますし、あたご、愛宕山も望見する京都にあって、世界というのは複雑なのか単純なのか、広いのか狭いのかがわからないからこそ、文明というものには伸びしろがあり、未来があるのだ、こう考えつつ、下界の仕事へと戻りました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
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雪景色を情景として辿るのは楽しいがその背景の歴史を調べるのも知識と資料の探索がまた一興という。
雪の日は貴船神社が混雑するという、いや実際には京都市も中心部が雪風舞う程度の白雪がうっすらと雪化粧されるほどの天気であっても、実は鞍馬はこんな感じです、という風景が広がります。階段はそうした中でも除雪されていますので、拝観に不自由はない。
鞍馬寺の歴史、近現代までは長らく天台宗寺院となっていました。天台宗、こう響きとともに雪煙の奥には比叡山、そして比叡山が遠望できます。こちらも市内からは毎日見上げる、しかし大津市となっています延暦寺が堂宇と信仰を広げる比叡が遠望できるのですね。
鑑禎が平安遷都より先立つ時代に開いた庵を、清水寺に所縁ふかい坂上田村麻呂と同時期に、空海とともに東寺を建立しました藤原伊勢人が一回り大きくしましたというお寺、堂宇そのものは山門である仁王門のほかは、いわれれば山頂というほかは馴染みある大きさ。
藤原南家の出身である藤原伊勢人、鑑禎が造営した毘沙門堂とともに観音堂を造営したといい、堂宇はこの頃から大きくなった、という事が理解できます。そしてもう一つ、この辺りは山岳信仰の聖地であり、いわゆる“鞍馬天狗”のような伝承と信仰にもつながる。
鞍馬弘教という信仰が成立するとともに毘沙門天と千手観世音と護法魔王尊の三尊を一体として信仰する流れが成立するのですが、鞍馬弘教は成立した時代が戦後、応仁の乱ではなく第二次世界大戦後のものとなり、近代神智学という曖昧な影響を受けているのですが。
三尊、鞍馬寺では金星より地球に降り立ち生物の進化を見届ける神という位置づけで説明されています、これはヒンドゥー教における1850万年前に金星から地球に降臨した霊的存在で人類を含めすべての生物の進化を見守るサナトクマーラという存在と、確かに重なる。
大日如来という大毘盧遮那仏は密教経典が体系化され、当時新興宗教であったヒンドゥー教との法論が為されていましたが、これが様々な経典とともに日本に伝わるころには、調和と一言で説明するに複雑な哲学を形成していました、何しろチベットと中国経由だから。
鞍馬、古名に定着した背景があったのか、近代神智学の影響から似ている地名とあやかったのかは資料探索の蓄積がなければ一概には言えないのですけれども大黒天や五大明王の信仰は、インドのヒンドゥー教との法論の頃に起源をもつ仏教の信仰でもあるのですね。
密教による山岳修験の場ともなりました鞍馬ですが、密教というものも日本に至るまでの源流をたどりますと奥深く、日本の歴史とともに哲学や価値観の複雑さというものを垣間見るようです、そもそも金剛という名前さえ、外来語となっているほどに、なのです。
金剛乗はヴァジュラヤーナ、真言乗はマントラヤーナ、日本仏教の原語はサンスクリット語なのですね。金剛という言葉は釈迦の降魔成道において説法を行った菩提樹の根元を金剛宝座というもので、これは論蔵という律蔵、経蔵とともに仏典三蔵の一つに記される。
こんごう、この名を出しましたのはヘリコプター搭載護衛艦くらま、が長年事実上の旗艦を務めた佐世保基地第2護衛隊群に配備された日本最初のイージス艦こんごう、装甲コルベット金剛や高速戦艦金剛、の由来となった艦ということで最初に連想した故なのですが。
ひえい、比叡山も護衛艦の名前になっていますし、あたご、愛宕山も望見する京都にあって、世界というのは複雑なのか単純なのか、広いのか狭いのかがわからないからこそ、文明というものには伸びしろがあり、未来があるのだ、こう考えつつ、下界の仕事へと戻りました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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