額田王の黒岩重吾の小説を読んでいるが、天武天皇(小説では大海人皇子)の妻となり十市皇女を産んだ額田王と第二婦人となった九州から来た尼子娘が、当時の最新の宮殿、難波京で語り合う場面がある。
一人の夫を巡って、当然ながら嫉妬の火花が散る仲なのであるが、互いに一貫性を信じ(つまり信頼し)優しい本音をぶつける会話の中から和解が成立し、次の言葉を額田王が語るようになる。
「私は思うのです、そなたも大海人皇子の妃、私も妃です、嫉妬し憎み合うよりも、お互いの淋しさを慰め合うべきでしょう、そなたとわたしなら、それができます、・・・」
この会話は難波の海に近い宮殿での出来事である。そして、額田王は冬の潮風の唸りに恐ろしさを感じるのだが、玄界灘で育った尼子娘には、難波の海はまだ優しく感じたとのこと。そのあたりの知覚に関する会話もすばらしい。そして、そんな何気ない会話から額田王と尼子娘が嫉妬や憎しみを越えて他者受容をし、幸福曲線に移って行く情景がなんともいえない。
嫌いな人が好きになる。難しい他者受容が実現するには黒岩重吾さんの小説ではないが、学問的にもいくつかの過程があるように思える。
傾聴(ロジャースの6条件)のプロセスであることは明確だが。その中でも、自分と他者の知覚(五感+知識というか意味づけ)の相違の実感・・・つまり自分と相手が違うことを知覚することも大きい、つまり感情表現からくる何かなのだろうか。
深層心理学的には、他者は驚きの対象だと言われる。その他者との出会いは未知への遭遇くらい不思議で奥深いもののようだ。
苦手な人、初めての人、嫌いな人との出会い。愛をもって傾聴をすることは大事だが、その中で互の知覚を大事にすることは大事なようだ。これは私の狭い経験でも、他者をゆるすときは知覚の変化があるように思えてならない。
時間と空間の旅 ② 1/10