昨年は2回吉野の宮滝遺跡に行った。持統天皇の祖母、斉明天皇のころに創設され、古代は壬申の乱の発端として、天武天皇の時代には皇族結束の盟約の地として歴史を刻んでいる。宮滝に実際に行ってみると、飛鳥の風景とは全く異質。いろいろな説があるが道教の神仙思想に相応しい土地かもしれない。
吉野・聖地で祈る。そして、天武天皇や持統天皇の祈りは、薬師寺でも、あるいは伊勢神宮にも繋がっていく。飛鳥の元薬師寺の礎石を観たときの驚き。薬師寺の薬師如来を拝観しての体感。伊勢神宮内宮での体感。そんな昨年一年、幸運にも経験できたことを思い出す。
さて、関東もこの二週間、記録的な大雪であった。そんな中、昨日は久しぶりに大栗側沿いを歩いた。雪により景色はずいぶん変わる。雪どけによる増水で川も勢いを増し、普段と違う川の流れと冷たさに身震いを覚えた。そして、天武天皇の次の歌を思い出した。
みよしのの 耳我(みみが)の峯に 時なくぞ 雪はふりける 間(ま)なくぞ 雨はふりける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ來る その山道を *隈(くま):道の曲がり目
天武天皇は、額田王に隠れてしまいがちだが、素晴らしい歌を読んでいると思う。この歌も、壬申の乱のときかどうか不明であるが、切迫感の中で何か不思議な感動を誘う。
祈りは、聖地で行うということもあるだろう。しかし、この歌のように歩きながら、日常の場の中で祈る不思議もある。
私は、修道女の方が祈りつつ食事を作っていただいたと聴いて感動したことがあったが、そんなことも思い出した。生活の中での祈りは大切だと思う。
祈りは、U先生のブログによると、フロイトの防衛機制で考えると素晴らしい補償行為に位置づけられるようだ。確かに、振り返ってこの10年とか20年を考えてみると、祈りがなかったら今の自分は無いと思う。祈り自体に効果(病気が快方に向かったり)があるという統計データもあるようだが、それ以上に祈るという不思議な行為により、少なくとも八つ当たりをして人に迷惑をかけたり、感情に蓋をして自分を傷つけたりするなどを回避でき、心を不思議に安定させていただける。祈りを馬鹿にしてはならない。
歩きながら、ロザリオの祈りをとなえたり(私はクリスチャンなので)するのが、私は好きだが、今日は雪道なので注意したい。
昨日は晴れていて、遠くに富士山の影も!
時間と空間の旅 ②10/10