縄文時代の研究をしつつ「花子とアン」を観ていると、いろいろ楽しい。今日は女性の醍醐さんが吉太郎さんにプロポーズするシーンに唸ってしまった。縄文時代は女系社会で、日本神話にも女神の話は沢山でてくる。しかし古事記や日本書紀が編纂されたのは8世紀で、何となく男性優位の思想がバイアスをかけているようで残念だ。本来、縄文の女性は醍醐さん以上だったかもしれない。
例えば、イザナミ(女神)とイザナキ(男神)の神話も、はじめイザナミがイザナキより先に声をかけて国産みをすると失敗し、逆にすると成功したという話になっている。最初に声をかけるのが女性という風習が縄文にあったのかもしれない。倭国の卑弥呼に象徴されるように、大王も女性の社会だったのかもしれない。
しかし、イザナミの神話は実に深い精神性をもっていると思う。イザナミは国産みや沢山の神々を産んだ後に、火の神カグツチを産む。そして、陰部をやけどし病に伏し、そして亡くなる。それから、イザナキの黄泉の国の探索の話に繋がるのだが、火の神を産んで亡くなるという話は深い意味を持つように思う。
私が、7歳の時に暮らした南東アラスカ、シトカに伝わる先住民クリンギット族の神話が、星野道夫さんの『森と氷河と鯨』という素敵な著書に掲載されていた。以前ブログで引用させていただいたが、今でも時々思いだす。
ワタリガラスが死を賭して火を得たが、それが、人に魂をもたらしたという文脈の神話であるが、イザナミが様々な幸をのこしつつも、死ぬことでカグツチが生まれた神話にも同じような精神性を感じてしまうのだ。
東京都埋蔵文化財調査センターの展示。左にランプ人面付香炉型土器が展示されている。
縄文土器を展示している博物館等に行くと、ランプとして使われた人面付香炉型土器がよく展示してある、火の神カグツチに関わる神話(イザナミの神話も一つだろうが)を想いつつ、縄文人はランプに火をともし祈ったのだろう。
人は、様々な生命体の中でも不思議な一面を持っている。ロジャースの人格形成理論に次の第4の命題がある。有機体を生命体とか人と読み替えて頂ければ判りやすいと思う。
命題4:有機体は、一つの基本的な傾向と渇望(striving)をもっている。すなわち、体験している有機体を現実化し、維持し、強化することである。
これは、今日はラーメン食べたいと思ったら、昼にラーメン食べてしまうといった日常のこともあるが、自分の人生を、基本的なその人の持つ傾向や渇望で辿っていくという、自己実現といったレベルもあると思う。
自己実現という言葉を考えるときに、自分で注意しているが、決して利己主義と同じ意味ではないと思う。時には、イザナミやワタリガラスのように死を賭して子供を産んだり、他者を救ったりするのも自己実現のひとつなのだろう。「花子とアン」も白蓮さんの歩君のような悲しい話もあるが、自己肯定・他者肯定の道を如何に歩くかが大事なのだろう。
蛇足で恐縮だが、私はカトリック信徒なので、この火の神話に燃えてしまう。十字架の贖罪に近いからだ。
私とあなた ② 4/10