物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

「かけ算には順序があるのか」の感想

2011-07-22 11:23:18 | インポート

「かけ算には順序があるのか」(岩波書店)を昨日手に入れて、第1章と第3章だけ読んだ。とはいっても走り読みであるから、十分な感想にはなりえない。このことをあらかじめお断りしておく。

第1章が本の表題にもなっている、かけ算の順序に関した考察である。結論をいってしまうと「かけ算」の順序を変えたときにそれを間違いとするのには賛成できないが、かけ算の指導のしかたをいまの形にもってくるまでの歴史的ないきさつを考えるとあまり順序はないのだといきりたつのは大人気がないような気がする。

それで妥協かもしれないが、私は現在の教え方を一つの標準化(この語の例を下に1つあげた)ととらえたい。評価としては6*4も4*6も正しいとする。

「みかんを6人に4個づつ配る」ときに普通は

4個/人*6人=24個

とするが、

6人*4個/人=24個

も正しいとする。だが、標準化された教え方としては 4個/人*6人=24個をとるのがよかろう。これは標準化であるから、正しい正しくないの判断には入れない。すなわち、正しいのはどちらも正しいとする。

数の交換則は成り立つが、量には交換則が成り立たないという主張にもつらいところがあると思う。というのは助数詞をつけたときにその助数詞も交換可能であり、交換できないと主張するのはどうかと思うのである。具体的な状況に合わないという反論はもちろんありうるが。

ただ、歴史的とか心理的な意味での 6人*4個/人=24個 の有利性はあっても、小学校で量にもとづいて算数を教えるという今のやり方からは、できるだけ後退しないほうがいいと思う。今のやり方が小学生にも理解がしやすいことは確かであろうから。

内包量(または1当たり量)*外延量=外延量

という仕組を保つためにハンドルネーム「積分定数さん」のように時速4kmで3時間歩いて求める式が3*4であったときに

3時*4km/時

3km/(km/時)*4km/時

として、(1当たり量)*(いくつ分)

を保てるから、これでいいではないかというのは確かに数学や物理を学んだ大人はいいかもしれないけれど、1当たり量をはじめて学んでへどもどしている小学生にもそれでいいではないかとは私には言えない。

しかし、両者は理屈にはあっていて正しいのだから、これを間違いとはしない。ただし、3km/(km/時) (注 参照) が量としてわかりやすいとは言えないと思うので、かけ算を教えるときに標準化とはしない。

そういう考えをもっている。

標準化という語で類推して欲しいのは代数式の計算でたくさん、かっこのある計算がよく練習問題にある。このとき数学としてはかっこは外側からはずしてもいいし、内側からはずしてもいい。

私自身は内側からはずすように標準化して指導した方が間違いが少なくてすむのではないかと思っている。これはあくまで標準化であるから、外からかっこをはずしても間違いだとは誰も言えない。

そういうところが教育にはあるのではないかと思う。

著者の高橋誠さんはあとがきで数学教育協議会の「量の考え方」に学恩と敬愛を感じていると書かれている。私がこの本を読む前に心配したのは数学教育協議会のいままでの成果や努力を無視するような風潮を助長せぬかというところにあった。もしそうであれば、それは社会的な意味での後退であろう。

一般の方(理系の方々を含む)も数学教育協議会の成果を知ってその運動に賛同されることを望んでいる。これはもちろん数学教育協議会を盲信することとはちがう。

それと数学教育協議会の「量の考え方」の有効性は小学校または高々中学校に限定されるということは数学教育協議会の内部でも心ある人々には知られている。

いまほど、いわゆる「落ちこぼれ」と思われている人からも、科学や技術においてその独創性を発揮してもらうことが大切なときはないのだから。

(注) 量3km/(km/時)は(距離である分布量)3kmと(内包量の速さ)がわかっていて、(土台量の時間)を求める演算と関係している。いわゆる、わり算の第2用法と関係していると思う。