親しく坂田博士と言葉を交わしたことがあるのは、ただの一回である。大学院博士課程の2年生の夏に名古屋大学と広島大学とが合同で主宰して、原子核・素粒子・宇宙線の若手の夏の学校を野沢温泉でしたときに、その担当校の接待係となり、野沢温泉から高山駅前までマイクロバスで名古屋から夏の学校の講師としてやって来た坂田先生を迎えに行った。
そのときにあまり乗り心地がいいとは思えないマイクロバスであったが、途中の乗鞍岳の登山口のところで休憩をしたときに、私が愛媛県の I 市の出身であることを知った坂田先生が「新居浜市に早川(幸男)君のお父さんがいる」と話をされた。
これは坂田先生が緊張気味の私のことを慮っての話だったのだろうと思う。その当時早川幸男さんのお父さん一家が新居浜市に住んでおられるなどとは思っても見なかったし、意外な感じがした。
この夏の学校は1966年のことであったと思う。というのは翌年の1967年は博士課程の3年生で私は先生のYさんから出してもらった博士論文のテーマを解くのに夢中で大学院の夏の学校に行くことなどはまったく問題外であったから。
坂田先生が亡くなった後で、奥様の信子夫人が幼稚園を開きたいと言うことで新居浜で早川幸男先生のお父さんの経営していた幼稚園に経営のknow-howを知るために数ヶ月滞在されているということを新居浜高専に勤めていた、友人のS君から聞いた。
ちなみに、新居浜高専とか昔新居浜にあった、元の愛媛大学工学部では早川先生といえば、有名な幸男先生のお父さんのことを一義的に指している。
野沢温泉の宿に着いた後で、学生の前で話をして欲しいという坂田先生を呼んだ名古屋大学の学生からの要請があったので、そのことを先生に伝えたが、「少し休んでからにしたい」と言われた。
しばらく休んだ後に学生たちを前にして講演をされたが、どういう話であったのかあまり覚えてはいない。しかし、そのころ流行のロゲルギストのような『「物理の散歩道」というような姿勢では駄目で闘う物理学を目指さなくてはならない』という箇所だけ奇妙に覚えている。
そのころには坂田先生はまだ骨髄腫を発病されてはいなかったと思うが、汗をかくと体がかゆくなるという蕁麻疹(じんましん)の症状が出ているとか名古屋大学の学生の悪童連が話していたように思う。
その後、私が博士号の取得後の1968年に京都大学の基礎物理学研究所の非常勤講師となったころに、坂田先生には脊椎の骨のカルシュウムが抜けていくという症状が見られており、これが骨髄腫の前兆であったのかもしれない。これは基礎研に当時居られた名古屋大学出身のK, U両博士などが噂話をされていることであった。