物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

Upright piano

2015-06-15 16:25:22 | 日記
今朝、仕事場に来る途中でFMのラジオをつけ聞いていたら、grand piano(グランドピアノ)とupright piano(竪型ピアノ)の話が出てきた。言葉としてuprightという語は聞き知っていたが、これが何を意味するのかは知らなかった。

先ほど、ようやく辞書を引いてuprightが「垂直な」という形容詞であることを知った。私はもちろんちょっと、難い語としてのverticalという語は知っていたが、uprightの方は辞書を引いたことなどなかった。

verticalに対して「水平の」をhorizontalというが、これをverticalと対にして覚えている。

ドイツ語ではhorizontalはwaagerechtといい、verticalに対してはsenkrechtという。ちなみに
die Waageははかりである。

ピアノの話に帰るが、グランド ピアノのことドイツ語ではder Fluegelといい、Fluegelはドイツ歌曲に「歌の翼に」Auf dem Fluegel des Gesangesとかいうのがあるから、一般には翼を意味する。ピアノには普通はdas Klavierという語が当てはまる。これは竪型のピアノの由である。

普通にピアノというとドイツ語のFluegelという語は思いつかず、私などはKlavierという語を思いつく。

オ―ストリアの家庭では家具としてのグランドピアノがある家も多いとか聞いたことがある。家具としてのピアノの場合には必ずしも調律をされていないことが多いとか。

もちろん楽器としてのピアノの場合には調律がされてないと楽器としての用をなさない。

ちなみにKlavierはクラヴィアとvが濁って発音される。ドイツ語では普通はvはフと発音されるのだが、vがヴィと発音されるということは外国語から来た言葉なのであろうか。花びんを意味するVaseもファーゼとは発音せず、ヴァーゼである。辞書によれば、これらはどちらもフランス語由来だそうだ。

なさけない実感

2015-06-15 13:35:15 | 日記
この数週間ドイツ語のクラスに行くとどうも自分がなにも自分の言いたいことを表現できる力がないことを実感している。

わざと先生の R 氏は私たちに何かを言うように仕向けるのだが、どうも何も言えない自分がいる。情けないったらありゃしない。

こんな感覚はいままであまりもったことがなかった。どうも最近はそういうことばかりを感じている。

大体、私は口数の多い方ではないが、それでも少しは何かを話すこともいままでにはあった。だが、自分が考えたことをドイツ語でうまく表現できないということに気づいてしまった。

これはもちろん私の頭があまり上等ではないということもあるが、それだけなのであろうか。数週間後にはドイツ語の検定を受けるというのに。

言えないだけなら、まあ仕方がないが、それだけではなく聞くほうも問題である。先々週だったかMERSの話題が出たが、そのときにK夫人がこれは-s Kamelのもっているビールスによる病気だとか言われた。そのときに、このKamelがわからなかった。-e Kammelleなら知っているがなあなどと思った。この辺が母語でない、外国語として学んでいる言語の弱みである。

話が進んで行ってKamelが愛媛県にも1頭だけ砥部動物園にいるという話を聞いてようやくラクダのことだとわかった。ちなみにKammelleの方は愛媛県の県花であるツバキである。

8-2理論

2015-06-15 10:29:18 | 日記
いまドイツ語検定の勉強をしている。とはいうもののあまり熱心に勉強するという気が起こらない。

それでもR氏から借りた聞き取りテストのCDを聞いてみた。明瞭な音声だがその聞き取りテストを自分でやってみてほぼ半分くらいしかできない。

これはいわゆる8-2理論にひかかってしまったためである。2回のスピーチの後で設問が2回読み上げられる。そのときに8-2理論とは8割は正しいのだが、後の2割が間違っているというふうに設問は設定されているらしい。

そして100%わかっていないとやはりヤマ勘で80%の情報に引きずられてまんまと間違った解答を選んでしまうという訳である。

そういう箇所が2カ所かあった。もう一度聞き直したときにそれに気がついたが、すでに遅し。検定者の罠に落ち込んだという訳である。

中村静治さんという大部の『技術論論争史』を著された方があって、武谷三男の技術論の定義がまちがっているという主張の書である。もちろん、それだけではないのだが、大部なのでなかなか読みこなすという訳にはいかない。

本の最後の第17章は「意識的適用説の墓標」という題の章であり、いろいろ書いてある。ところがどうもありもしないとまでは言えないかもしれないが、かなり誇大に武谷の間違いとして書かれていることがどうも本当にそうなのか確かめて見なくてはと思わされるようなことが書かれている。ひょっとしたら、自分の本を売るためのかなりあくどい方法での記述ではないかとさえ思った。

もっともまじめに書かれたところもあるのであろう。だから、その80%が正しいことから、残りの20%も正しいとすると間違ってしまう。特に武谷が雑誌『思想』に書いた論文のことがちらっと出てきたので、その部分を武谷の著書をとりだして昨日読んでみたが、なかなか批判的に書かれてあって、問題があるとはとても思えなかった。

その論文は、スターリン批判前後の旧ソ連とか社会主義体制のことであったが、vernunftig(理性的)と思われる内容であり、中村静治さんの書いてあることがちょっと一方的な判断であると思われた。

しかし、そういうチェックをしてみない方ならば、中村さん主張が全面的に正しいと思われるのではないか。

たぶん、中村さんはスターリン以後の旧ソ連はもう社会主義ではないというお考えの持ち主なのではないかと拝察した。

私がまだ十分に判断を下してはいないが、伊藤康彦さんの書もそういう感じがある。「武谷は間違わない」などという考えを私はとらないけれども、それでも十分に吟味がされてみるとやはり全体的には武谷批判の書を書かれた内容がちょっと行き過ぎているのではないかと思っている。

それと人間全体の生き方としてとか武谷の主張にはなかなか私たちの真似ができないところがある。批判をする人はその一部だけをとりだして貶めた評価するのだが、それはその人の全体の評価としてはあまりいただけないのではないか。