「鏡は孤独?」なんて発想はもちろん私のものではない。
昨夜、今年は5月末が土、日であったから、私の購読している岩波書店の『図書』が来るのが遅れて、昨日の6月1日に来たのでそれを読んでいるうちに眠ってしまった。
一眠りした後で目を覚まして読んだのが、池澤夏樹さんの「大江健三郎からW. H. オーデンへ」という「詩のなぐさめ」というシリーズの一つである。
その最後にオーデンの「ミランダ」というタイトルの詩の訳が出ている。その冒頭の句はつぎのようなものである。
鏡は孤独、だからあの人はわたしのものよ。
詩はこのフレーズから始まり、結構長い。このフレーズと
緑の高い丘はいつも海の横に座っているわ。
というフレーズは何回も繰り返して現れる。どうも何百年間も眠っていたいばら姫のおとぎ話をテーマとしているようでもあるが、詳しいことはわからない。
鏡は孤独
ってどうしてなんだろうと疑問に思った。詩は文学の一つなのだから理屈はどうでもいいかもしれないが、やはり気になる。
私の到達した解釈はつぎのようである。
鏡はあの人が鏡を見ているときには、あの人と一緒にいることができるから、「だからあの人はわたしのものよ」というフレーズは理解できる。では「鏡は孤独」とはなんだろうか。
いまの解釈と裏腹の関係にあるだろう。鏡はあの人がその前から去れば、そこには何も映らない。何も映らないことはなくて、そこいらにあるものが映るだけである。だから、鏡は孤独と詩人は表現したのだろう。
こういった理に落ちた説明を詩人は嫌うだろう。それこそ心で感じてほしいからだ。
だが、これからは私の想像だが、オーデンという詩人はひょっとして「仏教の空性」というような概念を聞き及んでいたのではないだろうか。
「人の心の本性は空性だ」と言われる。人間が自分の自我による苦しみから解き放たれていないときは苦しみ悩むが、それから解き放たれたら平穏な日々がある。
私たちは別にブッダではないので、いろいろ日常の出来事に悩むがそれも自我のなせるわぜである。心の本性は鏡のようになんでも映すが、またそこには本質的には何もない。まるで鏡のように。
このオーデンの詩の書名は『海と鏡』というらしい。海も鏡も自然を物体を人を虚心坦懐に映すところが似ている。
昨夜、今年は5月末が土、日であったから、私の購読している岩波書店の『図書』が来るのが遅れて、昨日の6月1日に来たのでそれを読んでいるうちに眠ってしまった。
一眠りした後で目を覚まして読んだのが、池澤夏樹さんの「大江健三郎からW. H. オーデンへ」という「詩のなぐさめ」というシリーズの一つである。
その最後にオーデンの「ミランダ」というタイトルの詩の訳が出ている。その冒頭の句はつぎのようなものである。
鏡は孤独、だからあの人はわたしのものよ。
詩はこのフレーズから始まり、結構長い。このフレーズと
緑の高い丘はいつも海の横に座っているわ。
というフレーズは何回も繰り返して現れる。どうも何百年間も眠っていたいばら姫のおとぎ話をテーマとしているようでもあるが、詳しいことはわからない。
鏡は孤独
ってどうしてなんだろうと疑問に思った。詩は文学の一つなのだから理屈はどうでもいいかもしれないが、やはり気になる。
私の到達した解釈はつぎのようである。
鏡はあの人が鏡を見ているときには、あの人と一緒にいることができるから、「だからあの人はわたしのものよ」というフレーズは理解できる。では「鏡は孤独」とはなんだろうか。
いまの解釈と裏腹の関係にあるだろう。鏡はあの人がその前から去れば、そこには何も映らない。何も映らないことはなくて、そこいらにあるものが映るだけである。だから、鏡は孤独と詩人は表現したのだろう。
こういった理に落ちた説明を詩人は嫌うだろう。それこそ心で感じてほしいからだ。
だが、これからは私の想像だが、オーデンという詩人はひょっとして「仏教の空性」というような概念を聞き及んでいたのではないだろうか。
「人の心の本性は空性だ」と言われる。人間が自分の自我による苦しみから解き放たれていないときは苦しみ悩むが、それから解き放たれたら平穏な日々がある。
私たちは別にブッダではないので、いろいろ日常の出来事に悩むがそれも自我のなせるわぜである。心の本性は鏡のようになんでも映すが、またそこには本質的には何もない。まるで鏡のように。
このオーデンの詩の書名は『海と鏡』というらしい。海も鏡も自然を物体を人を虚心坦懐に映すところが似ている。