物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

鏡は孤独?

2015-06-02 10:38:04 | 日記
「鏡は孤独?」なんて発想はもちろん私のものではない。

昨夜、今年は5月末が土、日であったから、私の購読している岩波書店の『図書』が来るのが遅れて、昨日の6月1日に来たのでそれを読んでいるうちに眠ってしまった。

一眠りした後で目を覚まして読んだのが、池澤夏樹さんの「大江健三郎からW. H. オーデンへ」という「詩のなぐさめ」というシリーズの一つである。

その最後にオーデンの「ミランダ」というタイトルの詩の訳が出ている。その冒頭の句はつぎのようなものである。

鏡は孤独、だからあの人はわたしのものよ。

詩はこのフレーズから始まり、結構長い。このフレーズと

緑の高い丘はいつも海の横に座っているわ。

というフレーズは何回も繰り返して現れる。どうも何百年間も眠っていたいばら姫のおとぎ話をテーマとしているようでもあるが、詳しいことはわからない。

鏡は孤独

ってどうしてなんだろうと疑問に思った。詩は文学の一つなのだから理屈はどうでもいいかもしれないが、やはり気になる。

私の到達した解釈はつぎのようである。

鏡はあの人が鏡を見ているときには、あの人と一緒にいることができるから、「だからあの人はわたしのものよ」というフレーズは理解できる。では「鏡は孤独」とはなんだろうか。

いまの解釈と裏腹の関係にあるだろう。鏡はあの人がその前から去れば、そこには何も映らない。何も映らないことはなくて、そこいらにあるものが映るだけである。だから、鏡は孤独と詩人は表現したのだろう。

こういった理に落ちた説明を詩人は嫌うだろう。それこそ心で感じてほしいからだ。

だが、これからは私の想像だが、オーデンという詩人はひょっとして「仏教の空性」というような概念を聞き及んでいたのではないだろうか。

「人の心の本性は空性だ」と言われる。人間が自分の自我による苦しみから解き放たれていないときは苦しみ悩むが、それから解き放たれたら平穏な日々がある。

私たちは別にブッダではないので、いろいろ日常の出来事に悩むがそれも自我のなせるわぜである。心の本性は鏡のようになんでも映すが、またそこには本質的には何もない。まるで鏡のように。

このオーデンの詩の書名は『海と鏡』というらしい。海も鏡も自然を物体を人を虚心坦懐に映すところが似ている。

ユーモア路上観察展

2015-06-02 10:24:55 | 日記
私の自宅の裏どなりのお宅の Y さんは路上ウォッチングの会の会員の一人である。

松山市の小坂2丁目4-37の乗松巌記念館エスパス21で5月30日から6月14日の予定で展示が行われている。入場は無料なので関心のある人は行ってみてほしい。近くに数台は車も駐車できるので、車で行くこともできる。インターネットはhttp://www.esoace21.sakurane.jp/である。

なかなか写真にとられてみるとなるほどこういう見方があったのかといつも感心させられる。私たち夫婦も日曜の5月31日に見せてもらった。

乗松さん、越智さん、芳野さんという3人の方々が会員であり、写真を展示してある。この写真もおもしろいのだが、それにつけられたタイトルがおもしろい。このタイトルをつけるところも三人が寄り集まってああでもない、こうでもないと議論してつけるそうだ。

写真半分、タイトル半分とか言われている。毎年の恒例の展覧会であるが、彼等の発表の場でもある。