物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

ドイツ語の語順

2015-06-05 10:53:47 | 日記
ドイツ語の語順の問題を昨夜のドイツ語のクラスで O 氏が R 氏に質問されていた。

それは先週は急にクラスができないというお知らせのメールについてであった。それの一部を引用しておこう。

Entschuldigung, dass ich es am Donnerstag (vergessen habe), zu sagen.
(すまみせん、木曜日に言うのを忘れていたのですが、・・・)

という個所である。強調のために定動詞とそれに関係した部分をカッコをつけた。それ以外の意味はない。(以下カッコはすべて強調のため)

Entschuldigung, dass ich es am Donnerstag zu sagen (vergessen habe), ・・・

とすべきではないかということだったらしい。R氏の返事はよくはわからなかったが、

vergesen habeの後ろは文のNachfeld(後域)であり、そこにおいてもかまわないという。しかし、O氏はさすがにドイツ語がよくできると感じた。私などその点にまったく気づかなかったからである。(もっとも私がいま読んでみると R 氏の書かれたドイツ語のほうが自然な感じがする。どうしてかは理由はわからない)

つぎの質問も意外なものであった。それは O さんがドイツ語を母語とする人から聞いたという

weil ich (komme) erst um 8 Uhr. (強調のために定動詞をカッコで囲んだ)

であり、これは聞き間違いかと思って O さんは聞き返したそうだが、やはり同じ答えが返って来たという。普通のドイツ語ではもちろん weil 以下は副文であるから、定動詞は後置されて

weil ich erst um 8 Uhr (komme).

であろう。R 氏の見解は若い人がそういう風に言う傾向があると認めた。それが英語の影響だという人もあるが、定かではないとつけ加えた。また、話し言葉では許されるとしても書かれた文章としては許されないであろうと言われた。

第3の例文は私の上げた例である。

Ich glaube, Herr Abe (hat) viel Geld.

とも

Ich glaube, dass Herr Abe viel Geld (hat).

ともいうが、昔は前の文は昔は学校でもNHKのラジオやテレビのドイツ語講座等でも教わらなかった(もちろんこの表現はいまでは普通である)。これについての R 氏の見解は Ich glaube の後ろの

Herr Abe (hat) viel Geld

は引用文という観点があるのだろうという。ドイツ語学習者としての私のような老兵は副文章では定動詞後置だと強く印象に残っているのだが、この例では別の主文という位置づけがされている。

昔のことを述べたついでにいうと、昔は名詞の3格の変化に語尾 e がつくのが常だったが、いまでは子どもという意味のdas Kindの格変化としては

das Kind, des Kindes, dem Kind(e), das Kind

と教わったものだが、1976年にフライブルクのゲーテインスティテュートではその男性名詞と中性名詞の単数の3格の語尾のeは(この場合にはdem Kindeの e )はもう古めかしいのでつけるなと教わった。私が初めて大学でドイツ語を学んだのは1958年だから、ほぼ20年の間にドイツ語も変わって来たのであろう。

もっとも慣用句としての nach Hause(家に)だとか zu Hause(在宅して)とかの場合には語尾の e が残っている。しかし、これも最近では nach Haus でも zu Haus でもいいと思う。

東京は老後には生活が困難?

2015-06-05 10:14:57 | 日記
日本創成会議とかなんとかいう機関が2025年には東京、神奈川、千葉の3県では介護施設に入居できないし、急性期病院も足りないから老齢になったら、地方に移住すべきだという意見を公表した。

私も子どもに東京では住居も購入できないから、老後に松山に帰ったらどうかと示唆しているが、友人、知人が、またきょうだいが東京に住んでいるから、松山には帰ってくるつもりはないらしい。

しかし、こんな提案がされるということなら、子どもの定年は約25年後くらいだが、私の提案もまんざら時代遅れでもないだろう。もっとも本人たちの意見が尊重されるべきであることはいうまでもないが。

それに私の死後に子どもがどのように困ろうともそれは自己責任であろう。いくら計画して人生設計をしていてもその通りにならないのが、人生である。だが、備えがあれば憂いなしである。

もっともそんなことを言うと、いまの安保法制の改定論議は「備えあれば憂いなし」を地でいっているので、文句を言う人がけしからんのだと論理を転倒させる論客も現れるであろうか。それが間違っているのは議論の余地がない。

論拠は何かというと安保体制の強化では軍事力の安定はなく、どこかで国家経済の破綻が見えるまで軍拡競走は続く。これはソビエト連邦の体制的な崩壊が歴史的な事実として示している。

ソビエト連邦の体制的な崩壊があったときに資本主義の勝利ということが言われたが、そんなことではないはずだと思ったらその通りであり、銀行の金利が何十年もとても低く据え置かれているのはやはり資本が投資する対象が見つけられないためだと「失われた20年」とかのNHKの放送で最近見たことである。

ところで、ソビエト連邦の崩壊のもう一つ原因は計画経済の失敗でもあった。そのことはある意味では社会主義の欠陥でもある。もっとも日本の政治は社会主義的傾向が強く、ある意味で国家経済に頼った資本主義である。

だから、どうしたらこの社会状況を打破できるかは経済学者の手腕にもかかっているのだが、やはりいい方法はないというのが現状であろう。少なくとも長期的な見通しを示せている人はいない。