自分では「カタコト・ドイツ語」と言っているが、なかなかカタコトのドイツ語でも話せるようにはならない。ある意味でカタコトのドイツ語が話せるようなら、すばらしいともいえる。
多分聞くことが難しいかもしれない。そして間違っているとしても即応した反応ができれば、なおすばらしい。
大学で少なくとも6単位は単位をとったが、ドイツ語は「ちんぷんかんぷん」であった。「こういう言葉が読んででもわかる人はどんなに頭のいい人なんだろう」とほんとうに長い間思っていた。
そういうことを昔あるときに言ったら、あるドイツ文学者に「ああ、あなたは英語がよくできたんですね」と言われたことがある。私は英語が特別よくできるわけではないが、その評はある意味で当たっていると思う。
意味するところはこうである。ヨーロッパ起源の言語はすべて英語と同じ語順だと思い込んでいたからである。英語以外の語順のヨーロッパ起源の言語があるとは思わなかった。
だから、逆にドイツ語でつまずいて、ようやく文章の語順は英語以外の語順があり得るのだとはじめて知った。
そういう意味ではフランス語でも英語とは異なる語順をとるときもあるが、あまりドイツ語ほど大きく独特のところはない。ドイツ語を学んだときの、そのショックが他の言語の習得の独自さを知るという考えをつくってくれた。
(2024.2.8付記)現在あるドイツ語のクラスを辞めようとしている私がいる。ドイツ語が使えるようになるという目標からはさらに遠ざかるというなさけない私である。だが、人間の人生にとっては外国語だけが主要な目的ではない。だからこういうこともありうるというのが、私の言い訳である。
もしも、達意の外国語を話すためが私の人生の目的ならば、他の選択肢はないのだろうが。そういうこともできたらいいとは思うが、私の人生の第一の目的ではない。