教育っていうと、この言葉を嫌がる人もいる。私の知っている有名人では2000年に亡くなった物理学者の武谷三男は教育という言葉が好きでなかった。
彼は新しいことを見つけることには執心したが、いわゆる教育には否定的だった。
一方、私は教育が好きな方である。これは、しかし、お仕着せの世間的な考え方を教えるという意味の教育ではないのだが。
高速道路を車で走行したことのない人はいまでは少ないと思うが、行先とか高速道路の出口のインターとかを知らせる標識は少なくとも3回は出てくる。
例えば、松山から高知に高速道路で四国中央市を経由して行きたいとすると、この高知行きの高速道路への出口の標識は最低3回は出てくる。1回目に見逃しても2回目、3回目まで見逃して高知へ行きそこなう人はまずいない。
教育でも最低なんでも3回は教えなくてはならないことをこのことは教えてくれる。ドイツ語の私たちの先生である、R氏などはもう何十回となく私たちに同じことを教えてくれる。だが、それでもなかなか記憶に残らないというのが実状である。
例えばの話だが、春に行われるカーニヴァルへの始まりは前年の11月11日11時11分11秒だともうそれこそ何回聞いたかわからないが、それでも私たちの頭にはなかなか定着しない。そういう話は私にはごまんとある。
私にしても大学でドイツ語を学んだことは3年くらいで大したことはないのだが、ラジオやテレビでの放送をもう何十年も飽きずに見たり聞いたりしている。それだのにその定着のしかたはとてもわるい。
これは私がその方面の専門家ではないということもあるのだろうが、専門家が聞いたら、あきれてしまうほどの記憶のわるさである。
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