物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

視力の測り方

2010-04-15 12:00:43 | 健康・病気

今年は花粉の量が少なかったとかで昨日まで大してひどくなかったのだが、昨日からひどくなった。仕事にならない。呼吸困難を起こしそうにまでなる。鼻汁が引ききりなしに出る。

毎年おなじようなことを書いているのだが、今年も書かずにはおれなくなった。それで昨日は少し早く自宅に帰ってコタツで寝ていた。昨夜もよく眠れなかった。

昨日月一回の眼の検診に行ったとき、たまたま患者さんが少なかったので、外国での視力の分数での表し方を聞いたら、眼の視力の検査をしてくれている看護師さんは知らなかった。

医師はさすがに知っていて、診察のときに説明した書籍の該当箇所のコピーをくれた。そして帰り際になんでもわからないことがあったら、聞いてくださいと言われた。

視力の表し方については簡単なエッセイを書くつもりである。

m を長さの単位にしているところと ft (フィート)を長さの単位にしているところとの違いがあるらしい。フランスは m の発祥の国だから m を距離の単位にしているのかもしれないが、アメリカとかイギリスではどうも m が単位ではないので、視力の測り方が違うらしい。

(201.3.29 付記)

「視力の基準」というエッセイを数学・物理通信第6号に発表している。これは「数学・物理通信」で検索すると京都大学の谷村省吾さんのサイトにリンクされているので、そこで見ることができる。「視力の基準」には外国で普通である、分数視力のことも述べてある。

(2014.7. 23付記) 詳細はもうおぼえていないが、視力は反比例のいい実例なる。中学校や高校の数学の教科書の教材もこういう生きた実例をとりあげてほしいと思う。

そのためには教科書や書物の編纂者が自然科学とか医学とか広い分野に関心をもっていることが必要である。私の編纂したe-learningのコンテンツ代数の第7章にはこの視力の例をとりあげている。

ただ、このコンテンツは愛媛大学のある特定の方々にしかアクセスできないのが残念である。いつかこのような制約なしにホームページに載せることを考えたい。


私のフランス語修業4

2010-04-14 12:29:43 | 外国語

フランス語はNHKのラジオやテレビでも勉強している。1977年4月に一年のドイツ滞在から帰ってきてから、ラジオでの勉強を始めた。それまではテレビでは勉強していたが、ラジオを聞いていなかった。数年経ったときにようやく動詞の半過去の時制になじんできた。それまで現在形は慣れていたが、半過去には慣れていなかった。

私の勉強法はただ20分か15分のラジオの放送を聞くということでそれ以外の勉強はほとんどしない。だから、半過去になれるのに数年がかかったという訳である。

学生の頃に英語を専攻した友人がいたが、彼は口癖に作家の大江健三郎氏はフランス語を3ヶ月でマスターしたと言っていた。もちろん大江氏は仏文科の出身だから当然かもしれないが、それに比べるとなんと悠長なことだろうか。でも、凡人にはこんなものである。

その後、未来形に慣れるのにまた数年かかった。はじめは条件法の現在形と未来とがごっちゃになってしまうのだ。そのうちにようやく区別ができるようになるまでに20年以上かかっている。まだ身についたとはいうことができない。

接続法にいたってはおよそ30年以上初級のフランス語文法を年に2回づつ繰り返して聞いているのにまだ身につかない。生きているうちにこれが身につくかどうかはわからない。それでも接続法はある特定に言い方と関係して現れるらしいと見当がついてきた。

単純過去は主に書き言葉でしか現れないので今もってまったく見当がついていない。

フランス語で身を立てるわけでもないので、こんなに悠長でもいい訳である。私の物理の先生のOさんなどはカルタンのスピノールの本を読むのに「フランス語一週間」かなにかで一週間ほど勉強して読んだというのをよく話されていた。

それもはじめはそれがフランス語であることを知らなくてなんだか読めないなと思ったとか。それで友人に聞いたら、それはフランス語であると知ってフランス語を促成で勉強して読んだという。それに比べると私のフランス語など使い物にならない。


研究室の同窓会

2010-04-13 16:48:27 | 日記・エッセイ・コラム

土曜日の夜に大学の研究室の同窓会があった。全国から14人が集まった。研究室の教授はもう何年も前に亡くなっているが、いつのころからか、同窓会をやるという習慣ができたのである。それでその研究室はもう卒業生を出さないのだから、老齢になってだんだん会員が減っていく一方である。

多分私たちの分野で一番有名なのは京都大学の湯川秀樹先生である。だから、その研究室も同窓会をやっているとすれば、私たちの研究室と同じでメンバーが年毎に少なくなっていく運命であろう。そちらの研究室にも関係している方がおられ、その方が今回集まった方の最年長であった。

すなわち、同窓会といっても、卒業生だけの同窓会ではなくて、旧職員も含んだ広い意味の同窓会なのである。2年に一度の会であるが、世話をしているのは私も含めて3人であり、これはどうもこれからも変わりそうにない。ほぼ1939年生まれか1938年生まれの三人である。

この世話人の学年は3年にわたっているが、はじめに世話人を引き受けた人がつぎの世話人を指名したので、結局この3人に落ち着いてしまった。私は3番目に指名された世話人であり、たまたま先回と今回の世話人を引き受けた。

同窓会といっても特に変わったことをするわけではない。どこかの場所に集まって一夕食事をしながら歓談をするというそれだけである。しかし、先月末の3月29日に先輩の一人が亡くなったというので同窓会有志として生花を贈った。

この方は基礎物理学研究所や原子核研究所にも勤められた方であったが、最後は立教大学に勤められていた。私が出した同窓会の開催通知を見て、遺族が連絡をしてこられたのであった。告別式には先輩の一人が参列をしてくださったとのことで、その様子がその方から報告された。

今度亡くなられた方はアメリカから帰られた直後だったと思うが、研究室に顔を見せられて、いろいろ話を当時の教官だったOさんとされていたのを覚えている。1960年代の初めか中頃のことだと思う。こういう風に同窓会のメンバーは一人二人と亡くなっていく。


元のH大学跡

2010-04-12 19:48:08 | 日記・エッセイ・コラム

土曜日に久しぶりに元のH大学跡を訪れた。いまその大部分は東千田公園という広島市の公園になっている。

この公園はかなり広くて日曜に松山へと高速船で帰るときに港の建物の2階にあった航空写真を見たら、平和公園とほぼ匹敵する大きさがあることがわかった。

私の学んだ、大学の建物はほとんどなくなっていたが、理学部の旧館だけは多くの方の保存運動のお陰で消滅をまぬかれていた。

しかし、今はまったく使われていないので廃墟である。昭和のはじめの建物で濃い茶色のタイル張りでもあり、原爆を受けた建物が今では市中にはほとんど残っていないので、本当に記念すべき建物である。

ここで学んだ50年程前が思い出されてとても感慨深かった。いまも国立大学法人の所有物ではあるが、今にもどこかに身売りをしそうな気配である。

先輩のSさんによると博物館として使ったらどうかというアイディアがあるそうだが、原爆で痛んだ建物を補強して補修し、使うにはかなりの額の費用ががかかるだろうと思われ、国も広島市もそんな財政的な余裕はないのかもしれない。

だが、なんとか立派に再生されて使われている姿を見たいものだと思った。

公園にはかつて森戸道路と通称された広い道路が残っており、ここのメタセコイアの並木はなお健在であり、大学正門のところのフェニックスも背が高くなってはいたが、まだ健在であった。

公園に接したカフェーで昼食をとりながら、私たちの出入りした旧理学部の建物を眺めたが、単に感傷的な気持ちだけではなく、なんとなく落ち着きのあるこの建物の存続を願わずにはいられなかった。


アルコール

2010-04-09 12:00:35 | 日記・エッセイ・コラム

アルコールといえば、小学生か中学生の頃の理科の実験でのアルコールランプを思い出す人はほとんどいなくて、多分お酒のことであろう。昔、フライブルクのゲーテインスティテュートで2ヶ月ドイツ語を学んでいた頃、出会った、ある学生はポリリンガルであるとうわさが高かったが、彼はアルコールはアラビア語から来ていると言っているのを聞いた。

それはともかくとして私はあまりビールが好きではない。先日のテニスクラブの花見会で一人に二缶づつのビールが用意されていた。用意してくださった方には申し訳ないのだが、一口飲んでこんなにビールってまずかったのかと思ってしまった。それでもそれを飲んだ後にもう一缶飲んだのだから、自分でも訳がわからない。

それで思い出したのだが、数学者の森毅さんも、哲学者の鶴見さんもアルコールを飲まない。特に鶴見さんはビールが一番の苦手だと聞いた。二人が朝日新聞の書評委員を勤めていたときにはホテルで二人してコーヒーを飲みながら長時間話し込んだというから、うまがあったのだろう。

それぞれ世間的にも成功した方々であるから、それぞれ一つぐらい弱点があってもどういうこともない。それにアルコールに弱かったとしても、それは個性ではあって別に悪いことではない。そういうことを思い出しながら、ビールを飲んだわけではないが、少なくとも一缶目は耐えがたかった。二缶目にはそういうことをあまり感じなかったから、舌がある程度麻痺してきていたのであろうか。

そういえば、このごろはワインはときどき飲んでも、ウィスキーを飲むことはまったくないが、若い頃にはその一杯目が辛くてたまらなかった。それが2杯、3杯と飲んでいくとアルコールの甘さを感じるようになる。これは誰でもそうであるのかそれとも私だけのことなのかは知らない。

花見に参加されたMさんはビール好きで何缶もビールをおいしそうに飲んでおられた。うらやましい限りである。


疲れ

2010-04-08 17:50:29 | 日記・エッセイ・コラム

なんだか春だからか体が疲れる。用事がなかなかすまない。自分でつくった仕事かもしれないが、しなければならない仕事のタネが尽きないのだ。これは喜んでいいことなのか、悲しむべきことなのかわからない。

ようやく今日数学・物理通信の2号を発行した。数日前には出来上がって、共同編集者のNさんには見せたのだが、それから数日はおいてあった。こういう日数をとることはなんでもないことだが、一応数日をおくというようなことをいつも心がけている。

出来上がったのなら、すぐに発行すればいいようなものだが、わざと数日をおくということはこれはもうある種のお遊びだからできることでもある。あまりあわてて、すぐに出すというようなことをしないのは仕事を片端からかたづけていくという観点からはあまりいいことではないのだろうが、そういう余裕をいつももつことはいいのではないか。

もっともそうも行かないこともあって、拙速を重んじる場合もある。これは他人との関係でその人の立場を考えてする場合である。

ともかく、少し疲労気味である。


ショパン生誕200年

2010-04-07 16:40:51 | 音楽

月曜の夜に市民コンサートでショパン(Chopin)のピアノ曲を聞いた。ショパン生誕200年とかだそうである。ショパンといえば、いわずと知れたピアノの詩人との評がある。私はどちらかというと重厚のものよりは優美な曲で軽やかなものが好きなのだが、そういう曲はあまり聴かれなかった。

そういえば、武谷三男のエッセイに「ショパンがもっとも美しく聞こえたとき」とか何とかいうエッセイがある。これは彼が特高に捕まって留置所に入れられ、取調べを受けていたときに取調室から留置室に帰ろうとしたときにどこかのラジオからショパンの曲が流れてきて、それをしばし、たたずんで聴いたとかいうものである。

いまの時代でいえば、彼はまったく起訴されたり、取調べを受けたりするような過激な思想の持ち主ではなかったろうが、太平洋戦争の頃は彼も不届き千万な非国民ということであった。

戦後の彼の勇ましい発言からいうと、彼が最左翼であったかのごときに思われているが、少なくともその当時はそういうことはなかったといっていい。それを強硬な左翼主義者にしたとすれば、これはこの当時の特高の取調べの業績(?)にちがいない。

武谷のエッセイは名文だとは思わないが、それでもなんらかの香りがして来るように思う。それはどうしてなのだろうか。どうも文章のうまい下手を越えた思想か感性か何かがあると思われるのだ。


テニスクラブの花見

2010-04-06 16:51:59 | 日記・エッセイ・コラム

先日の4月4日の日曜にわがテニスクラブの花見が行われた。これを計画してくれたのはSさんとKさんで、弁当から飲物まで用意をしてくれた。私たちは2000円の会費を払っただけであった。花見は海を見渡せる高台のテニスコート脇の草地の上である。桜もそこかしこに咲いている。満開のもあれば、まだ八分咲きくらいのもある。

10時半からテニスを2時間楽しんだ後に、シートの上で弁当を食べたり、ビールを飲んだり、果物を食べたりした。女性陣の他愛ないおしゃべりはみんなを楽しませてくれて、寿命が少し延びたのではないかと感じさせるような日であった。

参加者は11人で全員は参加しなかった代わりに、以前のメンバーだった人が数人参加をしてくれた。帰りに双海町の海岸に面した広場にお店があるので、そこで名物のじゃこ天を買って帰った。

海も穏やかで、風もなくそのせいで、風の吹く日によく飛んでいるパラグライダーはまったく飛んでいなかった。

私は俗にいう人見知りをする方で、何かを人と一緒にするのが苦手である。それで行く前はいやいやであったが、それでも一日をのんびりとさせてもらった。


私のフランス語修行3

2010-04-05 16:10:44 | 外国語

E大学に勤めていたときに、3回フランス語の授業に断続的に半年づつ出たことがある。

はじめはドイツ人の教師R氏がマセさんのフランス語の授業に出ていると聞いて彼のテキストをコピーさせてもらい、R氏と二人並んで授業を聞いた。

マセーさんは日本語もよくできる人であって、彼の奥様は日本人であった。また愛媛新聞の四季録というコラムにその当時の半年間にわたって週一回書かれていたが、その日本語が端正な格調の高い日本語であった。

家庭ではフランス語と日本語のどちらを使われているのですかと日本語で聞いたら、一日おきにフランス語と日本語を使い分けているとのお話であった。

私はなんどかマセさんとカタコトのフランス語で話したことがあるが、いつだったか近くの喫茶店での昼食で一緒になったときにcoursをクルスと発音したら、クールと直された。

これはcourseなら「買い物」はクルスと発音するが、coursはクールでsを発音しないのである。私はドイツ語のKursのようにsを発音したのであった。ちなみにcoursもKursも授業という意味である。

このマセさんの授業で覚えたことが二つあった。一つは最近を意味する語でrecemment(レッサマン)という副詞であり、もう一つは幼児語でdodo(ドド)という動詞である。fait dodoというのは子守唄かなんかの文句にありそうな言葉でdodoは眠るを意味するdormirの幼児語だとそのときに聞いた。


2010-04-03 13:24:20 | 日記・エッセイ・コラム

  ねがはくは花のしたに<wbr></wbr>て春死なんそのきさら<wbr></wbr>ぎの望月の頃

如月とは睦月、如月、弥生というから2月のことであるが、この如月は旧暦のことであるから、現在の暦では3月下旬から4月上旬のことだという。この短歌が有名なのはやはり桜が日本人に愛されるからであろうか。私には西行はこの短歌でなくて、

  心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ

の作者として記憶に残っている歌人であった。多分冒頭の短歌は精神病理学者の島崎敏樹さんの岩波新書に書かれた書で知った短歌だと思う。

これは島崎さんの奥様が花の鉢植えを動かしながら、花のところにいたかまきりか何かをそっとつまんで庭に放してやりながらだったかに「花のしたにて春死なん」とかつぶやいていたというのが島崎さんの本にあったと思う。もっともこれは記憶が確かではないので、私の勝手につくりあげたイメージかもしれない。

望月というのはなんだろうと思ってさっき広辞苑を引いて見たら、太陰暦の満月のことだとあった。今日仕事場に来る途中の車の中で望月とは何だろうなと思っていた。


放心状態1

2010-04-02 17:04:25 | 日記・エッセイ・コラム

40日近くに及んだ翻訳のアルバイトは終わったが、ちょっと放心状態である。

いまさっき、前からの仕事のe-Learningの代数(これは高校数学の復習)を整理して代表者に送ったが、これに微積分の初歩の話をつづけてまとめたい。本文は出来上がっているのだが、これに演習問題をつける必要がある。

それと数学・物理通信2号も原稿をつくったのだが、まだ発行をしていない。これは共同編集者のN先生の承諾をまだ得ていないから。一応原稿を印刷してもっていて、見てもらう必要がある。

どうも何もかもから逃げ出したい感じがする。何か理由があってのことではない。ただ単に疲れているからかもしれない。


e-Learningの仕上げ

2010-04-01 12:46:26 | 数学

一昨日からe-Learningの仕上げに入っている。もっともテクストに対して演習問題の解答を追加するということだけである。学生にアルバイトで解答をつけてもらったのだが、学生が解答の自信がないというところは自分で解答をつくって付加している。

ところが自分でもどの文献を参考にしてつくった問題だかもうわからなくなくなっているものもあって、直ぐには解答をつけられないものもある。そこは「解答準備中」としてそれまでは「各自解答を考えよ」と暫定的につけておこうかと考えている。

学生の補充してくれた図の入った新しい文書は読み取り専用であるので、編集できる文書にするには新しい文書にしなければならない。そういった作業を再開したというわけである。

新学期で本日からドイツ語のコースも新しい年度が始まり、第1回の集まりが今夕にある。

昨日は大学の研究室の先輩の訃報に接して、そのための連絡等に忙殺された。それだけが理由ではないが、ブログを書くのを忘れていた。