物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

アクセス・トップ5

2011-07-16 11:33:42 | 日記・エッセイ・コラム

トップページが一番アクセスが多いのは当然だが、それ以外でアクセス数の多いのは今日2011.7.16現在では

1.逆格子は難しいか 186

2.放射能汚染と生物濃縮 164

3.律速段階 131

4.数学 114

5. かけ算に順序はあるか 112

である。

「逆格子は難しいか」がかなり前のブログであることを考慮してもやはりこれに関心のある人が多いということがわかる。ということは大学の講義で、あまりその概念の親切な説明が与えられていないことを示しているのではないか。

昔大学に在職していたとき、学科会議で半導体を専門とする、ある優秀な先生が逆格子の概念からはじめて固体電子論を教えなくてはならないのでと言われていたのを聞いたとき、彼がそれをわかり難い概念だとは一言も言わなかったが、言外にこの逆格子の概念がちょっとわかり難いという含みがあったように感じた。

逆格子についてちゃんとわかりやすいように話をされている結晶学や固体物理学の専門の先生もおられるのだろうが、それでも大多数の先生の説明は天下りで、それで学生は逆格子を難しいという風に思われているのではないかと思っている。

もっとも、インターネットのサイトを調べるとこのことを説明しているサイトには事欠かない。しかし、どれももう一つの感じがしている。

「放射能汚染と生物濃縮」が第2位に来ているのは現在の状況からは十分にうなずける。これはFukushimaの原発事故からの多くの人々の関心を集めているからだろう。少しでもこのことが世の中の人に関心をもって頂けたのなら、幸いである。

「律速段階」が第3位を占めているのは私には意外だった。これは私などはまったく知らなかった専門用語であり、化学系の方が意外とこのブログの読者に多いということを示しているのかもしれない。

「数学」は単一のブログではないので、これは飛ばして第5位に「かけ算に順序はあるか」が入っているが、私の方からこどうしてこのブログにアクセスしたのですかと尋ねることはできないので、理由を知ることができないのは残念である。 


J文学「風立ちぬ」

2011-07-15 12:01:28 | アート・文化

NHKのEテレで放送しているJ文学をあまり文学に関係のない私は楽しんでいる。

昨夜とその前日の放送で時代を感じたのはベッドのことを堀辰雄は寝台と言っていることであった。

現代の私たちは寝台と言う言葉も使うかもしれないが、それはお年の方であって、普通の方はベッドというのではないか。

1930年代か40年代も前半のことであろうから、寝台という語もうなずけるが、私には古い言葉を聞いたような気がした。

堀辰雄の小説は1冊も読んだことはないが、私が中学生のころに堀辰雄がなくなった。中学校の国語のO先生がそれで、はじめて堀辰雄の小説を読んでみたと国語の授業で話をされていた。

「風立ちぬ」という題はなかなか瀟洒な感じがしたものであったが、それはフランス語のLe vent se leveという表現から来たものだとはフランス語をラジオで学んでいたときに知った。se leverはJe me leve tot ce  matin. というと「今朝早く起きました」という意味である。

そのse leverが使われたのが、Le vent se leveであり、leveのどこかにアクサン・グラーブ(accent grave) か何かを入れなければならないのだが、ブログの制約上で失礼をする。

「風立ちぬ」は若い婚約者の女性が結核にかかっており、余命いくばくもないのを知りながら長野県がどこかのサナトリウムで私が一緒に過ごすという話らしい。堀辰雄自身が結核で亡くなったと思うので、あるいは自身の実体験の部分もあるのかもしれない。

ベッドから、またまた話がずれていくが、bedと英語では書く。いま読んでいる田中克彦著『「スターリン言語学」精読』(岩波現代文庫)にドイツ語での t が英語では d に変っていると言及されており、例がいくつあげられていた。

それで私の気がついた例は上の bed が Bett であり、また garden が garten であることだった。だから確かにドイツ語の t は英語では d となっている。「精読」にはもっとびっくりするようなことが書いてあって、deer (鹿)はTier (動物)から来ているというようなことが出ていた。英語の drink, dry はドイツ語の trinken, trocken であると言われればなるほどと思う。

trocken はもちろん「乾いた」という意味だが、これはもちろんワイン等が「辛口」であることをも意味する。いま、ワインと書こうとして「ぶどう酒」と一旦入力したので、私も老人の一人だということがわかった。

いい加減の話だが、英語では動物は animal であり、このごろ流行のアニメの animation とか とも関係がありそうである。

専門用語では、ニュートリノという中性の粒子がある。これは質量があるが、とても小さいので「中性微子」という訳があるが、私はニュートリノという言い方を好んでいる。


二つのエッセイ

2011-07-14 14:31:35 | 数学

二つの数学エッセイを昨日ようやく書きあげた。二つとは言うがそれらが相互に関係しているので実質的に一つのようなものだが、明確に役割が違うので、2つのエッセイとした。

一つは四元数になじむことを目的にして書かれた。もう一つは前からいくつか書いてきたCauchy-Lagrange恒等式シリーズであり、その別の証明というつもりである。もっとも新しいことを含んでいるわけではない。四元数についてはよく知っている訳ではないが、これから少しづつ書いていきたい。

これらを書きあげたので、これからしばらく引き出しの中に原稿を寝かせておかなくてはならない。いつも言うように私はそそつかしいので、思わぬミスをするから、一番いいのは時間をおくことである。

9月にはまた数学・物理通信の第9号を発行するが、8月27日に徳島で徳島科学史研究会の30周年記念大会がある。そのときの講演を準備しなくてはならないのだが、まだほとんど準備ができていない。

その一環として田中克彦氏の『「スターリン言語学」精読』を少しづつ読んでいる。始めに予想したよりも興味深く読んでいるが、とびとびの時間を使って読んでいるので、なかなか読めない。


大事なことは書かない

2011-07-14 10:19:56 | 日記・エッセイ・コラム

私のブログを見て、何でも書いてあると思う方も居られるようだが、書いていいことと悪いこととは区別をしているつもりである。もっともその区別がそれほど厳しくないところはあるのかもしれないのだけれど。

他人の非難となるようなことは、特にすでに権威をもっている人は別にして書かないようにしている。それと自分の秘密もある。これは他愛のないことだが、自分でこれから調べてみたいことはあまり軽々に口にしないようにしている。

もっとも先日ちょっともらしたようなカオスに関係したことはなかなか自分では実現しそうにないのでわざと自分の考えの一端を述べてある。これは多分寝言か妄言だといってもよいからである。

いずれにしても何でも取り上げているようだが、その制限は自ずからある。もっとも何でもその制限なしに自由に取り上げているように感じられたとすれば、それはその気にさせて申し訳ないと思う。

別に政治的にどこかから圧力がかかるというほど政治的なブログではないし、それに第一とてもマイナーなブログであり、高々日に100人の方々が見て下れば、アクセス数がすごいという風なブログであり、何千とか何万のアクセスがあるようのブログを目指している訳ではない。

これは自分の楽しみにやっているブログなのであるから、アクセス数が数百もあるときは却って不安になる。もっとも200を越えるアクセ数があったのは、いままでに2,3回ですぐに60~100程度のアクセス数に落ち着いている。

しかし、何らかの情報を探して訪れる方々に欲求不満を与えているとすれば、申し訳ない。できるだけ考えるためのヒントになることを述べているつもりではあるが。


「かけ算には順序があるのか」の反響

2011-07-13 11:25:21 | 数学

「かけ算には順序があるのか」についての朝日新聞の福岡伸一さんの書評について述べたら、このマイナーなブログにしてはめずらしく、60回のアクセスがあった。

これはとても珍しいことである。それに「かけ算には順序があるのか」の著者の高橋誠さんからコメントをもらったりもしている。コメントをされる方というのはかなりの関与をされた方であるから、そう多くはないのは当然であるが、アクセス数が2、3日で60までも達するとは意外である。

これは誰にでも疑問に思うことであったためなのかどうか。かけ算の交換則などは世間の一般の人はその名を覚えてはいないのだろうが、それでもかけ算でかける順序を変えても、その答えが変わらないということは誰でも知っていることなので「かけ算に順序があるか」という問いは新鮮だったのであろう。

その答えはまだ問題の書を読んでいないので、なんともいえないが、小学校の算数教育の分野ではかけ算に順序があると考えているらしいということはわかった。

そして、そのことはある意味では教え方の進歩を意味しており、私は理解できると書いたつもりである。ただ、お前が4*6は正しいが、6*4は間違いだとするかと聞かれれば、そうはしないとも。

これは40年以上も前からの懸案事項だそうだから、そう簡単には決着がつきそうにない。

一言付け加えると、かけ算の意味を累加から解放した、(一つ分の数)*(いくつ分)=(全部の数)というかけ算の意味の意義はとても大きい。このかけ算の意味が普及したから、分数のかけ算等の意味に小学生がそれほど苦しまなくなったと思う。もし累加でかけ算の意味を教えられたら、分数のかけ算のときに引っかかる小学生がやはりいるであろう。

これはかけ算の順序の問題とは違うのだが、やはり微妙に関係していると思う。


気候工学

2011-07-12 12:53:15 | 科学・技術

「気候工学入門」という本が出ているのだそうだ。

現在地球温暖化が問題になっており、福島の事故の前までは原発を世界に売り込もうとまで日本政府だってしようとしていた。

その言い訳はあくまで炭酸ガスを放出しないということだった。ところがFukushima以後は反原発とか脱原発の機運が起こってきている。

それは今日の話題ではなくて、気候に関するのが気候工学らしい。炭酸ガスが多くなるなら、プランクトンを増やして炭酸ガスを減らしたらとか、太陽光の照射量を減らして地球の温度が上がらないようにとの技術が気候工学だという。

珊瑚礁がいい炭酸ガスの貯蔵庫だとか言われており、珊瑚礁の保護は地球温暖化煮の対策にもなるはずである。また、アマゾンの密林は地球の酸素の1/3か2/3かを産出しているそうだが、そこでは焼畑農業とかで密林が年毎に減少しているとも聞く。

地球のためにはやめてくれといいたいところだが、その焼畑農業がそこに住む人の生活を支えており、他に生活の手段がないなら、地球のために止めてくれとはなかなかいえないだろう。

人間はできることは何でも考えるところがいいのであるが、しかし気候工学はちょっと他の副作用がないのか気になる。何でも大々的にやると作用は確かにあり、メリットは大きいかもしれないが、そのデメリットもそれに付随することが多い。

その辺のデメリットがあるならば、それを最小限に抑えるというのだろうが、人間は全体的な自然の調和を乱してしまう恐れがある。

これは水爆の開発のときにも水爆の爆発の威力が大きくて、それでその影響で地球の大気が爆発する恐れがあるのではないかと真剣に心配したことがあったらしい。いろいろと検討した結果はそういうことは起こらないとの結論にいたり、水爆が開発された。

大抵の場合には使ったエネルギーが大きいとそれだけ影響が大きいのでエネルギー量がそれほど大きくなければその全地球的な影響はそれほど大きくはなかろうとは推測される。

だが、ホントのところはどうなのだろうか。


かけ算には順序があるのか

2011-07-11 12:03:16 | 数学

岩波科学ライブラリーというシリーズの中に最近表題の本が出されたらしい。そしてその本の書評が昨日の朝日新聞に出ていた。書評者は生物学者の福岡伸一さん。

「6人に4個ずつミカンを配ると、みかんは何個必要ですか」という問題であれば、

(4個/人)*6人=24個

とするのが普通であるが、もしこれを

(6個/巡)*4巡=24個

とすると「ばつ」になるという。ここで、*はかけ算の記号のつもりである。ここでは式の意味上から単位めいたものを勝手に付け加えた。しかし、このような場合にはこの単位めいたものを、つけるようにまでは指導しないというのが、遠山啓さんのご意見だったと思う。

小学校で本当に「ばつにする」のが普通なのかは私は知らないが、もしそうだとするとなかなか算数の教え方が行き届いて来たと「大いに喜ぶべき」なのかもしれない。

しかし、それはおかしいとこの本の著者高橋誠さんは頑強に考えたということがこの本を書く動機になったらしい。

後のように考えるやり方をトランプ配りというのだが、それよりももっと起源が古いところに

6*4

があるということらしい。普通の数では掛け算の順序は入れ替えられるという交換の規則があるから、交換してもいいではないかということなのであろう。

実はこの数の順序を入れ替えても積の答えが変らないという、交換可能の規則は中学校くらいで習うのだが、有難味がまったくわからない。それは行列のかけ算やベクトル積を学んでその意義がようやくわかるのである。

上に与えた問題のような場合にはかけ算の順序をことさら取り立てるのは大人気ないが、それでもこれが物理の問題で単位がついていたりしたら、答えの数値があっていても、本当の理解には頭を傾げざるを得ない。

入試とかで実際に減点するかどうかはケースによるだろうし、採点の先生によるだろう。が、点数には表れないが、採点者としては少し疑問を感じる。だから、入試で合格した人の方が、落ちた人よりもきちんと正しく理解しているかはわからないなと入試の採点のときはいつも感じていた。

そういうこと等をつらつら考えると、高橋さんの本の意図がどこにあるかを見極める必要がありそうだ。福岡さんのようには「思想史的な問いかけなのだ」などと手放しで礼賛(?)する気にはなれそうにない。

もっとも書評を読んでこの書を買って読んで見なければならないかという気を起こさせたのなら、福岡さんの意図は十分に果たされた。


アトラクター

2011-07-09 13:51:36 | 数学

アトラクターのアをとるとトラクターとなり、これを知らない人は多分いない。しかし、アトラクターはと聞かれて知っている人は少ないだろう。

いつもブログに取り上げる、ネタを考えているので、今朝何をブログに書こうかなとと思って思いついた言葉がアトラクターであった。

これは若い頃に学生 N 君がカタストロフィー理論を勉強して、教官である私の友人の N さんや U さんに話をしたことから、U さんがこのカタストロフィー理論にとりつかれて、自分もカタストロフィー理論を勉強して、それを私の部屋まで出張講義に来られた。

そのときに初めて聞いた語がアトラクターとリペラーであった。現実の世界で本当のアトラクターが存在するのかはわからないが、家庭の台所の流しの吸い込み口はアトラクターといっていいだろう。もっともそれは下水道の方への家庭からの出口にしかすぎない。

存在が今では確実だと言われるblack holeは理想的なアトラクターであろう。そこには何でも近くのものは吸い込んでしまう。そしてそこに一度吸い込まれたら永久に(?)に出て来れない。

そういうものでなくとも鳴門海峡の渦潮の渦はアトラクターのように思われる。しかし、この渦もいつまでも渦を巻くのではなく、潮の流れが変る境目のときには渦も収まるのであろうから、常時アトラクターでもなさそうである。

ある時期に限れば、あるコンサートが行うコンサートホールは人を吸い込むアトラクターであるが、そのコンサートが終われば、人は家路につくからそこはリペラーとなる。

いつもNHKのニュースで見かける渋谷の駅前の交差点などは一方でアトラクターだが、一方では、人がそこを通りするぎるので、リペラーとアトラクターとが共存している。これは正確な意味でのアトラクターでもリペラーでもない。

ブログも1400回を越えると、いつも新しい話題というわけには行かず、いつか書いたことの繰り返しになっている。このアトラクターもそういう話題の一つになってしまった。

できるだけ新しい話題をとは、心がけてはいるのだけれど。


8,000語から10,000語を

2011-07-09 13:15:03 | 外国語

英語でもドイツ語でも8,000語から10,000語を修得すると話がぐっと楽になると言われる。

しかし、3,000語から4,000語のレベルでうろちょろしているので、結局ものにはならない。

それも使える語というのはもっと限られている。2,000語も使えればいい方で、大抵はもっと使える語は少ない。

外国人としてはドイツ語はまずは2,000語が目標であろう。さすがに英語の語彙数は2,000語なんてことはないが、それでも5,000語は行かないだろう。

先日もラジオでNHKの「ニュースで英会話を」聞いていたら、見たことも聞いたこともない語ordealが出てきて辞書を引いたが、まず綴りがわからないので、目的の語にたどり着けなかった。仕方なくNHKのホームページに行ってやっとその綴りがわかった。

そういえば、数学者の小平邦彦さんが「怠け数学者の記」(岩波)かなにかで何年もアメリカで研究生活を送った後で日本に帰ったときに、ニューズウイークをとっていたらしいが、いつになっても知らない単語が出てくると書かれていた。

だから、私などが知らない単語がいっぱいあるということにびっくりしていてはいけないのだろう。

それにしても受験勉強をしていた高校生のころでも知っていたのは高々6,000語くらいであったろう。だから8,000語とか10,000語とは望むべくもない。

それに知っているとしても単語の知識はうろ覚えであるから、なおさら役には立たない。


金の貸借と友情

2011-07-08 12:02:15 | 日記・エッセイ・コラム

ことわざに「金の貸借は友情を壊す」というらしい。

それで思い出したのだが、羽仁五郎がどこかに書いていた。彼は友人の哲学者三木清にかなりの額のお金を用立てて欲しいと頼まれ、五郎の父に用立ててもらって、貸したらしい。

だが、この父が優れた考えの方だったらしく、お金を用立てるときにそれを「その友だちにやるつもりでないなら貸すな」と言ったらしい。これはことわざにあるようなことが起こるかもしれないとの心配をもったからであろう。

その後、三木清は当時は非合法で潜伏していた、タカクラテルか誰かを自宅にかくまった罪で捕まり、拘置所にいる間にひどい疥癬にかかり、急死してしまう。

だが、それ以前にも羽仁五郎は三木清に一度も金を返して欲しいと請求などしたことがないと言っている。五郎は友情はお金に優ると考えていたからであろう。

羽仁五郎の父、森氏は群馬県の桐生で絹織物工場かなにかをもっている、いまで言うなら企業家であるから、お金を貸してもどうということはなかったのかもしれないが、それでも見上げた識見である。

五郎が羽仁説子と結婚するときに、五郎の父は説子に「五郎は黒猫を白猫といいくるめる(あるいはその反対か)」ようなところがあるが、それでもいいかと正したという。

自由学園がどのような学校か私はよく知っている訳ではないが、そこを卒業してもいわゆる特権が付与されるというような学校ではないらしいところが興味深い。


唯物論と観念論

2011-07-07 11:01:25 | 外国語

唯物論と観念論とは普通には哲学の用語であろう。なんだか難しい漢字の用語でこんな用語には一生関係がなさそうだと思われる方もあろう。しかし、これは日本での訳語がよくないらしい。

唯物論は物質主義と言った方がいいらしい。そういえば、英語ではmaterialismだったかな。それを気取って唯物論などと訳をつけた昔の人を恨みたい気がする。これは材料とか物質のことをmaterialというからである。

観念論の方は思いとか願いとかが重要でこちらが物より人間に影響を与えるのだと考え方らしい。こういうのをイデーとかイデアというから、したがってこういう考えを日本では観念論と訳したらしい。いま辞書を引いてみるとidealismとある。これは理想主義とも訳がついているが、哲学では観念論という訳らしい。

こういうことを先日述べた田中克彦『「スターリン言語学」精読』から知った。この書ははじめからこういうことを書こうと思ったわけではないかもしれないが、そういう説明もされているところがおもしろい。

観念論といわず、オモイ中心主義とでも訳しておけば、難しそうには見えなかったろうに、観念論などというと「そんなものはまったく私には関係ないもん」と言いたくなってしまうが、もとはそんなに難しいことを意味していたわけでないらしい。

そういえば、先日der Begriffという日本では概念と訳されている言葉をドイツで小さな子どもが使ったのでびっくりしたことがあったと小塩 節先生が言われていた。先生はそのときにBegriffは実はドイツ語としては難しい言葉ではないのだと付け加えておられた。

ところが、概念などと訳されると「わっしには関係がない語だ」と思ってしまうから、漢字の訳語も罪作りである。


梅雨明けはまだ

2011-07-06 11:30:43 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜は涼しかった。夜、久しぶりにエアコンなしで寝ることができた。もっとも今朝4時すぎには妻が窓を開けてくれたらしいので、涼しい外気が入ってきて気持ちよかった。

もし本当の夏が到来すると夜の温度が25度を下らない。そうすると、エアコンなしではなかなか眠れない。睡眠不足だと体がだるくて、昼の活動が不活発になってしまう。もちろん体調がいいはずがない。

汗がきちんと出るようになると、しかしある程度は体の新陳代謝が進むのだろうが、まだそこまで天候がはっきりしている訳ではない。涼しいのはいいが、湿度が高く、梅雨明けはもう少し待たねばらないだろう。

四元数のことを少しづつ書こうかと用意をはじめた。これはある出版社からもうずっと以前に勧められていたのだが、不義理を重ねてきたのを少しづつでもそのその本の用意になることを書き溜めて行きたいと思っている。

もっとも一番の困難を感じているところをクリアしている訳でないので、やはり困難が残っていることは確かなのだけれども。しかし、Hamiltonがどのようにして四元数に到達したかはすでに彼の初期の論文を読み解いて解明をしている。

一般に数学はその結果をできるだけ論理的に整理して示すということに重点があり、それをその発見をした人がどのように考えて発見したのかは示されない。

ところが、人はいろいろであり、事実としての結果を知ればそれでいいという人も居られるのだろうが、自分も発見をしたいと考えるとその発見の秘密を知りたいと考える人も居られるに違いない。

もちろん、新しいことを見つけるから発見であり、以前の発見の経緯を知ったからといって新しい発見が保証されるわけでは決してない。

量子力学の端緒となった、Heisenbergの最初の論文などもどうしてそのような考えが出たのかは最近になって解明されたとかインターネットで読んだ。詳しいことはその論文を見ていないのでわからないが、それは科学史の論文として意味があると思う。


金属疲労と磁気ヒステリシス

2011-07-05 12:02:08 | 物理学

Je suis fatigu'e. (ジュ スィ ファティゲ)というと私は疲れた(正確には疲れている)というフランス語だが、この中にはfatigu'eという語が入っている。

fatigu'eは英語のfatigue疲労と同じ語源の語である。英語では多分、I am tired. といってfatigueはつかわない。英語のfatigueは名詞であって、形容詞ではない。

ところで、この英語のfatigueは専門用語としても使われている。金属疲労とかいう風に使われている。疲れるのは人間だけではなく、物でも疲れるというところがおもしろい。

これは金属疲労の一例だが、私の家の金属製のコップの柄がちょうどコップをかけるためにも使われていた。ところがあるとき、その柄が折れてコップが落ちてしまった。

それで妻は仕方なく新しい金属製のコップを買ってくるしかなかった。コップとしての機能は失われた訳ではなかったのだが、取っ手を流しの前の棚に引っ掛けて置けなくなったからである。これは金属疲労のいい例であろう。

昔、コメットという名の英国のジェット機ができて、旅客機として使われていたが、日本のどこかの島の山麓に墜落するという事故があった。この原因の調査が行われて、金属疲労のせいであることがわかった。これは低温の高空と地上の温度差による機体の金属疲労が原因ということだったと思う。

いまでは金属だけではなく、いろいろな材料の特性が詳しく調べられているから、最新のボーイング787の機体の材料についてもその特性を詳しく調べられていることだろう。だが、1950年ごろには材料の研究はいまほど十分には進んでいなかった。

人間にはヒステリーという精神的な病気があるが、これはそれまでにその人が受けた精神的な負担が積み重なって、耐えられなくなり精神的に爆発するのが原因であろう。

ところで物理の方では磁性体には「磁気ヒステリシス」という現象があり、一度磁化するとその磁性体にかけられた外部磁場を元に戻しても磁性体の方の磁化は元にはもどらない。これを普通には磁性体の磁気ヒステリシスという。

磁気ヒステリシスは磁気履歴と日本語では訳されてもいる。

ヒステリシスはhysterisisであり、ちょっと英語を知っている人なら、歴史を意味する、historyと縁のある語ではないかと気がつくことだろう。ヒステリーは辞書を引くと英語でhysteriaとある。

いずれにしても、こういう物理の専門用語とヒステリー(もともとは医学の専門用語?)という日常語とが地続きである。磁性体の磁化の履歴は人間の精神の履歴と類似であることでそのような用語がつくられたのであろうか。

こういう指摘をH大学で教えられた故S教授が講義でされたを覚えている。それは彼がそういう風に学術用語も日常使う言葉の延長として捉えていたからであろう。

ちなみに個人の履歴書などを正式にはcurriculum vitaeなどとラテン語由来と思われる語を使うこともあるが、単にpersonal history と普通の語を使うこともある。


海と空

2011-07-04 12:00:59 | 日記・エッセイ・コラム

ある会社の標語に「澄んだ空と海があれば、環境はすべて美しい」という。しかし、これは必要条件ではあるが、十分条件ではない。

最近の原発事故による放射性元素の放出でもわかったように、原発事故により環境の外見が悪くなったわけではない。ところが環境は汚染されてもう美しくはないのである。

もちろん見た目には環境は放射能汚染によって変ってはいない。だが、それをもう人は美しいとは思わないのである。もう何十年も昔のことだが、ある女性が松山にやってきてスライドを見せながら講演されたことがあった。

彼女はイギリスのウエールズかどこかの核燃料処理工場による核汚染の話をしたのだが、風景は元のままの美しさであるのに、ガン等の病気が他の地方の頻度より多く近隣の住民に発生してその環境はとても美しいとは思えないという話であった。

福島の原発事故は環境を津波と地震で一緒に変えてしまったので、それを考慮すると環境の見かけまで壊れてしまった例だが、放射性物質それ自身は大量に放出でもされなければ、別に風景を損ねることはまったくない。だが、放射能汚染の事実を知ってしまった後ではもう人は風景をも美しいとは思えないのである。

ただ、原発が誘致された土地はそれまで開発に取り残された地方であり、原発に地方の経済的な発展をかけたというところがあり、原発を誘致したことを非難してもじゃあそれをどうしたらその地方の発展が図られたかと言われるといいアイディアがあったとは思えない。

もっとも、それにしてもやり方が他になかったかどうか。国の政策と電力会社の意図とから離れて他にアイディアがなかったのかと考えるこのごろである。


Joh さんの「力学」

2011-07-02 14:59:20 | 物理学

旧知のとはいってもまだ一度も直接にはお会いしたことはない、Johさん(物理のかぎしっぽ)の力学の本が出て、それを送ってもらって昨日受け取った。

プレデアス出版のシリーズ『楽しく考える物理シリーズ』の第1巻である。これから第2巻「熱力学」、第3巻「振動・波動」、第4巻「電磁気学」が順次出版されるらしい。期待するところ大である。

第1巻の「力学」であるが、昨日届いたばかりであるので、まだ十分に読む時間がないが、気のついたところをいくつか述べておこう。いずれはJohさんに感想を書くときのメモのつもりである。

まず、このシリーズの特徴になるのだろうが、説明の文章が多い。それで式はあまり多くはない。ある程度訓練された人には数式の方が却ってわかりやすいのだがとJohさんも書かれており、そのとおりなのだが、あえて文章が多くて式は少ない。

だから、説明が詳しいのはこの書の特色といっていいだろう。ところどころに図や絵が入っており、それはそれほど多くはないが、息抜きになる。この書をみて、朝永振一郎編の「物理学読本」(みすず書房)を想起した。

もっとも「読本」の方は説明がこの書ほどは稠密ではなかったと思うし、数式を避けるために式の文字を使わずに式の中で普通の言葉を使っているために却って読みにくいと感じたが、この力学は式を堂々と使っており、その点の読み難さはない。

図で感心したのはp.109のコリオリ力の説明で大砲を撃つとその砲弾が右側にずれるということを図で説明があり、これは直観的でとてもよい。

他にも大砲の弾丸の速さを増していけば、地球を回るようになるとの図もある。もっともこの説明が「大砲の威力を増していけば、・・・」とあり、「威力とは何だ」とひっかかりたくなる。折があれば表現を修正したほうがいい。

これは科学史の本ではないが、物理での考えの変遷についてかなり詳しく書かれている。そこらあたりはそれを面白いと思うか、それともうっとうしいと思うかは両方の反応があろう。

このごろの高校生は文章を読むことが一般的に苦手だといわれているので、この書が成功するか不成功かは結果を知りたいものだ。

遠心力は「みかけの力」だという言い方はよくないとあり、私も同意見である。フーコー振子が地球の自転を実験室的に示したことには触れてあるが、もっと地球の自転を実験室的に証明した実験として大々的に触れる方がよかったのではないか。

ベクトルが文字の上に矢印の表記は頂けない。これは多分に高校生に取り付きやすいようにとの配慮からだと思うが、私などはベクトル記号には太文字をどしどし使うべきだと考えている。

また、カオスは因果律(普通の微分方程式)にしたがっているので、「解が予想できない」とは思わない。これは全く古典的のものであるから、量子力学のSchroedinger方程式のようなstochasticのものではないと思う。

p.140に正しく述べられているように、初期値に解が敏感に依存するということが本質であると思う。ちょっとその辺の説明の言葉が誤解を招く可能性があるので、表現に注意して欲しい。

昔、山口昌哉先生の集中講義を聞いたときに古典的な因果律にしたがった方程式なのに一見するとstochasticな現象を呈するのだというのが特色だといわれたと思う。

ともかく今までなかった新しい試みの本だと思う。成功を節に祈っている。

以下は感想ではなく、私の独り言である。

chaoticな現象から逆に量子論的な現象、たとえば光をピンホールから出したときに少し離れたフィルム上に円形の明暗の光の干渉模様ができるというのと、同じようなことを力学系で再現させる人が現れるのではないかと密かに思ったものだが、いままでのところ、そういう力学系をつくって見せてくれた人はいない。

この光の回折のパターンをつくる実験だと明暗の円形の輪ができるのは長い時間をかけてフィルムを光に露出しなくてはならない。

フィルムの代わりに蛍光板を置くと、瞬間的にはあちらの点が光でぽっと蛍光を発して明るくなり、こちらの点でぽっと明るくなりして、それぞれの明るくなる点はまったく脈絡がないように思えるが、蛍光板の代わりのフィルムを置いておくとそのフィルム上には長時間が経つとそれらが全体として光の回折のリングが現れる。

そういう風なことをなかなか力学系で再現するのは難しそうだから、今までのところはそんな数値実験に成功したという報告を聞いてはいないが、将来的にはそんなことに成功する人が出てきてもおかしくはないと思っている。

もっともそれに成功したとしても、量子力学をその力学系で置き換えることができるなどとは簡単にいえないだろうが、そういうことがひょっとしてできるのではないかと密かに考えたことがある研究者は多分私一人ではあるまい。

(2011.8.10 付記) 上に書いたことを読み返してちょっといい足りなかったことを注としておく。

量子力学のSchroedinger方程式も微分方程式であるが、この方程式は状態の観測が行われない限り、状態はこの方程式で変化していく。だから、そういう意味では状態の観測が行われない限り、因果法則に量子力学もしたがっている。(量子力学の第1法則)

だが、状態の観測が行われるとき、そのときの状態の時間的変化はSchroedinger方程式にしたがず、突然の変化が起き、それまで固有値状態の重ね合わせで表されていたのが、そのいずれかの一つの固有状態になる(状態の収縮)。

だが、状態の観測の結果として、まったくどの固有状態になるかの情報がないわけではない。

観測前の状態はいくつかの固有状態の重ね合わせであり、観測をしたときに、それらの固有値の状態のいずれになるのかの確率はわかる。その確率は、その固有状態の前のフーリエ係数の絶対値の2乗に比例する。(量子力学の第2法則)

この第2の点に量子力学のstochasticな性質がある。

こういう量子力学の構造を納得できないと感じる人はいるのだが、それでも作業仮説的に上の二つ法則を量子力学がもっていることは誰もが認めていると思う。