「小屋掛け物理学」と寺田寅彦の物理学を批判する人はいう。
これは私の知る限り、原光雄とか武谷三男とかまた菅井準治とか唯物論の立場に立つ、物理学者等が言っていたことであり、坂田昌一も同じ批判をもっていたことが、西谷正さんの『坂田昌一の生涯』(鳥影社)でわかった。(ちなみに原光雄は化学者である)。
これは寺田物理学の一つの側面だとは思うのだが、寺田寅彦のやった研究にはその側面に限らずもう少し範囲が広いというのが、私の現在の判断である。それは絶対正しいということではなくて私の感じなので正しいかどうかわからない。
この判断は、岩波書店が寺田寅彦の科学論文の著作集を出したことがあり、そのときにそれを私は購入しなかったが、そこに出ていた論文のリストを見て思ったことであった。
ただ、普通の市民に卑近な物理学として受けのよかった寺田物理学には上の方々が与えた批判は当てはまるのかもしれない。だから寺田物理学の流れを汲む、中谷宇吉郎についても二つの評価の見解がありうると思う。
一方で、寺田小屋掛け物理学的な批判の当てはまる側面とそうでない側面とである。ロゲルギストについては私はこの別の側面があるのかはわからない。だから、これについては判断を保留しておきたい。
その寺田物理学の別の側面があったかどうかということに対する、西谷さんの見解の表明は『坂田昌一の生涯』には出ていなかったと思うし、この書は坂田の伝記であり、西谷さんの見解が問われている訳ではないから、この坂田の見解に西谷さんがどう思ったかを書く必要はないのだが、個人的にはどう思われているのだろうということは知人としては気になることである。
文学としての寺田寅彦全集が出たときに武谷三男も岩波書店の求めに応じて、推薦文を書いていたと思うが、彼は寺田物理学の批判と共に寺田寅彦は権力的ではなかったと、彼のいい側面の指摘もしていたように思うが、それはもう記憶が薄れてさだかではない。
(2013.2.11付記) 人の目に触れる文章は記憶で書かないでちゃんとしたことを書けということをコメントをもらった。
上の部分のどこがそうだったのかわからないが、最後の部分だとすれば、記憶が薄れて定かではないと書いたが、寺田が権力的ではなかったという指摘は間違いがないと思うので、そんなに無責任なことを言ったわけではない。一言お断りをしておく。
これが武谷の現代論集に載っていたのか、それとも論集には載っていなかったが、寺田寅彦全集の広告のためのパンフレットに載っていたのか調べたら、わかることだが、調べていない。
どうもコメントをされた人の指摘が具体的でないので、私の思い過しかもわからないが、上の文のどこかに問題があったとしても、ここは間違っていますよと指摘をすれば、すむことではないか。
もし私の記憶とかが間違っていたのなら、それは失礼をしました。ということになるだけであろう。
コメントも建設的にして頂きたい。
それにこれはいわゆる研究論文ではない。真偽のほども読む人の判断に委ねられる。これは論文との違いであろう。論文とエッセイとの違いを心得ないでいる人のコメントはそのままでは出せない。
また、自由な意見の表明もいけないという一種の言論統制だとも悪意をもってとれば、とれなくもない。そこまで意地悪く思っているわけではないけれども。