物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

坂田昌一の寺田寅彦批判

2011-11-12 13:22:28 | 物理学

「小屋掛け物理学」と寺田寅彦の物理学を批判する人はいう。

これは私の知る限り、原光雄とか武谷三男とかまた菅井準治とか唯物論の立場に立つ、物理学者等が言っていたことであり、坂田昌一も同じ批判をもっていたことが、西谷正さんの『坂田昌一の生涯』(鳥影社)でわかった。(ちなみに原光雄は化学者である)。

これは寺田物理学の一つの側面だとは思うのだが、寺田寅彦のやった研究にはその側面に限らずもう少し範囲が広いというのが、私の現在の判断である。それは絶対正しいということではなくて私の感じなので正しいかどうかわからない。

この判断は、岩波書店が寺田寅彦の科学論文の著作集を出したことがあり、そのときにそれを私は購入しなかったが、そこに出ていた論文のリストを見て思ったことであった。

ただ、普通の市民に卑近な物理学として受けのよかった寺田物理学には上の方々が与えた批判は当てはまるのかもしれない。だから寺田物理学の流れを汲む、中谷宇吉郎についても二つの評価の見解がありうると思う。

一方で、寺田小屋掛け物理学的な批判の当てはまる側面とそうでない側面とである。ロゲルギストについては私はこの別の側面があるのかはわからない。だから、これについては判断を保留しておきたい。

その寺田物理学の別の側面があったかどうかということに対する、西谷さんの見解の表明は『坂田昌一の生涯』には出ていなかったと思うし、この書は坂田の伝記であり、西谷さんの見解が問われている訳ではないから、この坂田の見解に西谷さんがどう思ったかを書く必要はないのだが、個人的にはどう思われているのだろうということは知人としては気になることである。

文学としての寺田寅彦全集が出たときに武谷三男も岩波書店の求めに応じて、推薦文を書いていたと思うが、彼は寺田物理学の批判と共に寺田寅彦は権力的ではなかったと、彼のいい側面の指摘もしていたように思うが、それはもう記憶が薄れてさだかではない。

(2013.2.11付記) 人の目に触れる文章は記憶で書かないでちゃんとしたことを書けということをコメントをもらった。

上の部分のどこがそうだったのかわからないが、最後の部分だとすれば、記憶が薄れて定かではないと書いたが、寺田が権力的ではなかったという指摘は間違いがないと思うので、そんなに無責任なことを言ったわけではない。一言お断りをしておく。

これが武谷の現代論集に載っていたのか、それとも論集には載っていなかったが、寺田寅彦全集の広告のためのパンフレットに載っていたのか調べたら、わかることだが、調べていない。

どうもコメントをされた人の指摘が具体的でないので、私の思い過しかもわからないが、上の文のどこかに問題があったとしても、ここは間違っていますよと指摘をすれば、すむことではないか。

もし私の記憶とかが間違っていたのなら、それは失礼をしました。ということになるだけであろう。

コメントも建設的にして頂きたい。

それにこれはいわゆる研究論文ではない。真偽のほども読む人の判断に委ねられる。これは論文との違いであろう。論文とエッセイとの違いを心得ないでいる人のコメントはそのままでは出せない。

また、自由な意見の表明もいけないという一種の言論統制だとも悪意をもってとれば、とれなくもない。そこまで意地悪く思っているわけではないけれども。



physicomathさんは?

2011-11-11 18:10:42 | 日記・エッセイ・コラム

暇つぶしにインターネット検索をしていたら、表題のようなサイトがあり、

physicomathさんは 旅行 や合唱  が趣味で反数 に興味があり、松山 によく行く。 仕事は学者  や先生  をやっており、丹下健三 さんや村上密さん とのつながりがある。 そんな人物です。

と書かれていた。まったく間違っている訳でもないが、丹下健三さんの生前には会ったことがないし、村上密さんにしても2,3回しかお目にかかったことがない。多分村上さんは私のことなどは会ったことも覚えていないだろう。

誰が情報を集めてこういう文章をつくっているのだろうか。多分、パソコンで情報を集めて、自動的にこのような文章をつくったらしい。

面白いと思ったので、あえてここに取り上げた。

ちなみに、若いときは別として、現在、私は旅行も合唱も趣味ではありません。


坂田昌一博士との接触

2011-11-11 11:03:14 | 物理学

親しく坂田博士と言葉を交わしたことがあるのは、ただの一回である。大学院博士課程の2年生の夏に名古屋大学と広島大学とが合同で主宰して、原子核・素粒子・宇宙線の若手の夏の学校を野沢温泉でしたときに、その担当校の接待係となり、野沢温泉から高山駅前までマイクロバスで名古屋から夏の学校の講師としてやって来た坂田先生を迎えに行った。

そのときにあまり乗り心地がいいとは思えないマイクロバスであったが、途中の乗鞍岳の登山口のところで休憩をしたときに、私が愛媛県の I 市の出身であることを知った坂田先生が「新居浜市に早川(幸男)君のお父さんがいる」と話をされた。

これは坂田先生が緊張気味の私のことを慮っての話だったのだろうと思う。その当時早川幸男さんのお父さん一家が新居浜市に住んでおられるなどとは思っても見なかったし、意外な感じがした。

この夏の学校は1966年のことであったと思う。というのは翌年の1967年は博士課程の3年生で私は先生のYさんから出してもらった博士論文のテーマを解くのに夢中で大学院の夏の学校に行くことなどはまったく問題外であったから。

坂田先生が亡くなった後で、奥様の信子夫人が幼稚園を開きたいと言うことで新居浜で早川幸男先生のお父さんの経営していた幼稚園に経営のknow-howを知るために数ヶ月滞在されているということを新居浜高専に勤めていた、友人のS君から聞いた。

ちなみに、新居浜高専とか昔新居浜にあった、元の愛媛大学工学部では早川先生といえば、有名な幸男先生のお父さんのことを一義的に指している。

野沢温泉の宿に着いた後で、学生の前で話をして欲しいという坂田先生を呼んだ名古屋大学の学生からの要請があったので、そのことを先生に伝えたが、「少し休んでからにしたい」と言われた。

しばらく休んだ後に学生たちを前にして講演をされたが、どういう話であったのかあまり覚えてはいない。しかし、そのころ流行のロゲルギストのような『「物理の散歩道」というような姿勢では駄目で闘う物理学を目指さなくてはならない』という箇所だけ奇妙に覚えている。

そのころには坂田先生はまだ骨髄腫を発病されてはいなかったと思うが、汗をかくと体がかゆくなるという蕁麻疹(じんましん)の症状が出ているとか名古屋大学の学生の悪童連が話していたように思う。

その後、私が博士号の取得後の1968年に京都大学の基礎物理学研究所の非常勤講師となったころに、坂田先生には脊椎の骨のカルシュウムが抜けていくという症状が見られており、これが骨髄腫の前兆であったのかもしれない。これは基礎研に当時居られた名古屋大学出身のK, U両博士などが噂話をされていることであった。



内視鏡のメーカー

2011-11-10 12:01:49 | 科学・技術

内視鏡のメーカーである、オリンパスが粉飾決算を10年以上隠していたことが最近の大きなニュースになった。

しかし、義弟の O 氏によるとこの内視鏡の発明は日本の生んだ偉大な発明の一つだと言う。そのお陰で多くの人々が命を胃がんなどから救われている。もっともそのような偉大な技術を生んだ会社の経営陣はあまりほめられた経営をしていなかったことになる。

いま、世界の内視鏡の市場の70%をオリンパスの製品が占めているとか。それくらい優れた製品をつくれる現場と研究陣をもちながら、一時業績不振のために財テクに走り、そのために損失を出し、それを隠すために粉飾決算をしていたという。

なんとも皮肉な話だが、それでもこの汚点によって内視鏡の技術的な評価が下がることはないだろうから、経営者にとって技術者さまさまということだろうか。もっとも株価が急落して現在の価格で財産を評価する現在の方式では数千億円の損失を出している。

外国の投資家にとってそのようなことは寝耳に水だったろうが、だからといって業績が急に悪くなる訳ではないのでこの反応はちょっと過剰反応ではないのだろうか。もっとも経済に暗い私が思うことだから、この意見はまったく通用しないのだろう。

株価が低迷したときに買って大もうけすることなどできない相談なのだろうか。


坂田昌一生誕百年

2011-11-09 10:43:36 | 学問

坂田昌一は1911年の生まれであるから、今年は生誕百年である。そのためだと思うが、坂田昌一関連の書籍が3冊出ている。(ちなみに僚友の武谷三男も1911年の生まれである)。

一つは私の知人、西谷 正氏の著書「坂田昌一の生涯」(鳥影社)であり、これは本格的な坂田昌一の伝記である。これからもこれに勝る伝記は現れないだろう。もちろん、狭い範囲に限れば、もっと立ち入った側面を述べた書は現れるだろうと思われるが、全般的にはこれが坂田昌一の伝記の決定版であろう。ぜひ、ご購読を勧めたい。

さらに、「坂田昌一コペンハーゲン日記」(ナノオプトニクス・エナージー出版部)が出た。これは坂田が1954年に半年ほどデンマークのコペンハーゲンのニールス・ボーア研究所に滞在したときの日記である。

これがなかなか読ませる日記であって、海外に滞在したことのある学者とかなら、その日本からの手紙を切望する気持ちとか、日本の新聞や雑誌とかを読みたいという気持ちがあちこちに出ていて身につまされる。

坂田は世界に名だたる物理学者であるが、やはり人の子であり、日本からの手紙が欲しかったのであろう。もっとも彼には夫人の信子氏をはじめ多くの方々からの手紙が寄せられている。そのことは日記の受信に明らかであるし、彼も多くの手紙を発信している。

さらに、もう一つの書は「原子力をめぐる科学者の責任」(岩波書店)である。この書はまだ手に入れていないが、坂田が原子力発電に慎重であったことは知られており、「福島」以後そのことが急に注目されている。もっともそのことは私などでも少しは聞き及んでいたことなのであるが、そのことが奇しくも氏の生誕百年に起こった「福島」の事故でクローズアップされているのは何かの縁だろうか。


自分を追い込む

2011-11-08 14:40:07 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜のNHKの「プロフェッショナルの条件」で三谷幸喜さんが出ていた。彼は「自分を追い込んでいい仕事をするようにしている」ということであった。

それから「制約を却って糧にしてよりよい仕事をしている」という風に言っていた。台本が出来上がっているのに、リハーサルの段階でリハーサルを見て、また台本に追加をするという風であった。

これは私にもまた、私の先生である、Yさんにも同じような習性がある。ほとんど完璧と自分で思っていた原稿でもまた、延々と書き直しをしたりするのが普通であるからである。

三谷さんも台本の余白に台詞を書き込んでおられたので、Yさんのことや自分のことを振り返って納得をした。

もっとも私は三谷さんとは違って自分を追い込んだりはしない。原稿は自分で何も変更箇所をもう思いつかなくなったら、ようやく完成である。ところがそう思って置いておいた原稿でも時間がたつとまた直したくなることがあるから、原稿の完成とは言っても相対的なものであることがわかる。


ブログの休み

2011-11-04 17:10:48 | ブログ

義父の法事で上京するために、明日の11月5日(土)から数日ブログを休みます。旅行中に事故等にあわなければ、予定では11月8日(火)から再開します。

土、日にはこのブログを見る人は少ないのですが、それでもブログを楽しみされている方もおられるかもしれませんので、あらかじめお断りを致しておきます。


「坂田昌一の生涯」を読む

2011-11-04 13:41:47 | 物理学

昨日、知人の西谷正さんから、彼の労作である「坂田昌一の生涯」を送ってもらった。

それで今朝の4時ごろまでかけて読んだ。とはいっても470ページを越す大著であるから、これは拾い読みにしかすぎない。

一言でこの本を評価することはできないし、またそれをすることは著者の西谷さんに失礼でもあるだろう。彼の多年にわたるご努力に感謝をしたい。

確かに益川さんの序文にもある通り一読に値する書であり、ほとんどなんでも書いてある。これは単に坂田の生涯だけではなく、彼と関係のあった、湯川、朝永、武谷等との交流の記録でもあるだろう。

私は武谷三男の伝記を書くとか、書きたいと言っているのだが、その作業は遅々として進まない。

ひょっとすると鶴見俊輔さんは武谷の伝記を書く気持ちがあったかもしれないのだが、私が書きたいといっているので、我慢をして書かないでおられるのかもしれない。

この書は坂田先生の物理についても述べてあり、また、社会活動についても書いてある。それもなかなか詳しく調べて描かれてある。

坂田はその門下生が多くて、それらの門下生に慕われていたので、坂田自身は自分についてはあまり語らなかったが、それでも坂田について語る方は多い。それがこの伝記の深みを与えている。

私個人は坂田の言説としては、「階層性の論理」とか「形の論理から物の論理へ」という主張が印象的であり、それらについてもう少し踏み込んだ考察が欲しかった気がする。

しかし、これは個人的な好みであって、それだからといってこの書が極めて優れた書であることには変わりがない。


磐音とおこん

2011-11-03 13:39:23 | 本と雑誌

「磐音とおこん」とは佐伯泰英さんの時代小説「居眠り磐音」に出てくる主人公とその恋人である。この二人がいつ一緒になるかどうかがNHK居眠り磐音シリ-ズの放送で出てきていたのは知っていたが、佐伯さんの本を一度も買ったことのない私には知る由もなかった。

岩波書店のPR誌「図書」に佐伯さんが連載中の「惜櫟荘だより」についてはこのブログでも何度か触れたが、今月は先ほど亡くなった児玉清さんに思い出を書かれている。

多分、私が佐伯泰英という作家を知ったのは、2010年のNHKの元旦の放送からであったらしい。この放送で対談相手が児玉清さんであったという。私の記憶ではもう児玉清さんはまったく思い出せないのだが。

冒頭の話に帰ると、「磐音とおこんに子どもが生まれたんだよ」と児玉清が嬉しそうに言っていたというエピソードを伝えたかったのである。

というのは私はこのごろの時代風潮を反映して、この磐音とおこんの二人は一緒にはなれないのではないかと不吉な将来を予想していたからである。

児玉清に関して言えば、彼がドイツ語のNHK放送でドイツの書籍を紹介していたことの方が印象に残っている。「地球を測る」という小説を紹介していたことがあり、その翻訳も出ているので、いつか読んでみたいと思いながら、まだ読んでいない。


秋葉前広島市長の転進

2011-11-02 12:03:30 | 数学

秋葉忠利前広島市長が4選の市長選には出ないで勇退したことはテレビや新聞で知っていたが、その後をどうしたのか知らなかった。

秋葉さんはもともと数学者であるから今回知った転進の仕方は意外ではないのだが、広島大学の特任教授に就任されていた。これは私の購読している、雑誌「数学教室」(国土社)で知った。

数年前に広島で数学教育協議会の全国大会があり、そのときの総会で当時の委員長の野崎さんと対談をしたことを知っている。それが彼のもう一度のアカデミズムへの復帰の気持を促進させたのかもしれない。

秋葉さんが政界に進出する前は広島修道大学の教授であったし、その前はアメリカのタフツ大学の准教授であったから、もともと数学の研究者を目指した方であろう。

だが、どこかで政治を変えたいと思われたのか国会議員となり、その後に広島市長になられて、3期12年を務められたはずである。

それから、何を思われたかアカデミズムへの復帰をされたということである。そういえば、先日このブログで触れた、「この数学書がおもしろい」でポントリャーギンの「連続群論」を学生のころに読まれて分かりやすかったと書かれている。

私などは亡くなった池田峰夫先生の大学院の購読講義で同じ本の1~3章を読んだが、あまりよく分からなかったことを覚えている。そしてしばらくは群論拒否になった。池田先生はゼミの終わりに下巻の終わりの方に応用として役立つ章があるとボソッと言われたことを今でも思い出す。

池田先生はゼミでは「いつでもわからなかったらexample(例)を考えなさい」と注意を与えられたが、例を考えられるのはかなりの理解が進んでいないと考えられないので、結局はそういうアドバイスをもらったということしか私の中には残っていない。

ただ、解析接続の具体例を私が知りたいと強く思っているのはそういうアドバイスに忠実にしたがっているだけだが、あまりその具体例を広範に書いた本にはまだ出くわしていない。

「具体例を考えなさい、とか、上げなさい」とは友人の数学者Nさんが九州大学工学部の数学教室での数学書講読で先生方から強く言われたと何回か聞いた。

この「例を考えよ」というアドバイスは数学を学ぶ学生に与えられる「伝統的な教え方」の一つなのであろうか。もっともこれは数学を学ぶ者以外にも重要なアドバイスである。

いつだったかこのブログでも、ニュートンも

Examples are more important than precepts

と彼の代数のテクストの序文かどこかで言っていると書いた。


心がけていること

2011-11-01 12:02:21 | 日記・エッセイ・コラム

このブログを書くときに心がけていることは新しい物の見方だと私が思ったことをできるだけ取り上げるようにしていることである。

これはもちろん私にとってということなので、世の中の学もあり、見識もある方にとってということではない。だが、私自身が「ああ、こういう見方はいままで知らなかったな」と思うとそれをテーマとしてとり上げているつもりである。

それらはもちろん大発見などではもちろんないが、新しいものの見方の一つであることには違いがない。今後もそういう観点からこのブログを書きたいと思っている。ただ、そういう思いは思いとして新しい考え方や見方をうまく取り上げているかというと実は心もとない。

先日も雑誌「数理科学」11月号を見ていたら、「非線形の魅力を語る」という対談で、蔵本由紀さんに吉本研一さんが言っていることに「蔵本さんは上手に数学(コト)と物理(モノ)の両方をうまくバランスをとって新分野を築かれていますよね」とあって、このコトとモノという言葉の使い方に新鮮さを感じた。

コトとモノは日本語では「事物」という言葉で一括されるものであるが、コトとモノはいろいろにとることができる。ここではコトを数学ととり、モノを物理にとっている。

先日のブログでもモノとコトについての白熱教室Japanのことを書いたかと思うが、モノとコトといってもそのとり方は正にいろいろである。