物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

探していた本2

2014-01-20 12:48:54 | 本と雑誌

先日ある本を探していることをこのブログで書いた。それはブロダ著「ボルツマン」(みすず書房)だった。

昨日、何回も見た私の書棚を見たら、そこにこの書があるではないか。それも一度となく見たはずだのに、どうも見つけられなかった本だった。何を私は見ていたのだろう。

それでその本をとりだしてきて、コタツの上においてある。もっとも前にこの書を購入したときにもちらっと見たことがあるが、私には難しすぎたと見えてどうもあまりそれを読む気がしなかった。

この本を購入したときからかなり年数が経ったので、少しは自分自身に進歩が見られるかと思っていたのだが、どうも私自身には進歩が見られないようである。

それで標準的な熱力学と統計力学の書を書棚からとりだして読もうとしている。読もうとしているというのは実際に読むことができるかどうかわからないからである。

熱力学の本はどの本を見てもこれならわかるという書があまりないような気がしている。

一つは概念としての説明がわかりずらいということもあるだろうが、応用という点でも私のようにわかりが悪く、かつ記憶力がない者には何がなんだかわからなくなる。

その問題点の克服策としては私も小著「数学散歩」(国土社)とか「物理数学散歩」(国土社)のLegendre変換の項がいくらか役立つと思っているが、どうもその辺について透徹して書かれた熱力学の書にはまだ出会っていない。

だから、熱力学の本はまずは応用の観点から書かれるべきであるし、それからもう一度概念を徹底して説明した書が必要である。

もっともそういう書はすでに日本では出版されているのであろう。だが、そういう書にたまたま出会っていないというだけなのであろう。

日本の大部分の物理の研究者は理解力もあり、それも深い理解をできる方々ばかりであり、わたしのような物わかりの悪い人はほとんどいない。

大学の共通教育課程で定年前の数年間にわたって熱力学を教えたから、まったく初心者とはいないであろうが、それでもすっきりしたとはいえない。

もっともその講義の参考に朝永振一郎「物理学とはなんだろうか」下(岩波新書)を見たら、ある箇所の説明がぴったりときたことがあった。もっともそれが何のことであったかよくは覚えていない。


幸福学

2014-01-18 12:56:45 | テレビ番組

昨夜、NHKのEテレで、「幸福学」白熱教室を見た。

幸福学とかいうと反感を感じてしまってみる気がしなくなるのだが、見ているとけっこう役立つことを話している。

仕事にどういう期待をするかというと、経済的に期待するとか、名誉とか地位を求めるとかの人は幸せを感じなくて、仕事の意義を感じている人が幸せを感じるという。半年もしたら、再放送があるだろうから、そのときによく、見てみたい。

ジョブクラフティングということがそのときに重要であり、それを箇条書きすると

1.社会との交流の質や量を見直す

2.仕事の意義を広げる

3.仕事のやり方や範囲を見直す

である。放送では実際に実例をあげたりされているので、とてもインパクトがあった。

要するに仕事を生活のためのお金を得る手段として考えているかぎり、その仕事から幸福感は得られない。なんらかの意義を見つけることが必要であるということである。

業績、業績と追い立てられている、会社員の方々には難しいことかもしれないが、やはりなんらかの意義を自分の仕事に見出さなくてはならない。

そして、そのことはどういう仕事をあなたがしていても可能だという。そのことがひょっとしたら、あなたの、君の人生を変えるかもしれない。

そのキーワードは

人を助けよう、クリエイティブ、・・・・

の3つであった。最後の一つをメモし損ねた。


電子音楽

2014-01-18 12:00:39 | テレビ番組

NHKのEテレで、坂本龍一の音楽の学校scholaを楽しみにして見ている。

今期は電子音楽ということで作曲家がつくったのでない、音楽がとりあげられている。

こういう番組ができると楽器などまったく演奏できない私のようなものでも音楽をつくってその音楽をパソコンなどで演奏することができるのではないかなどとまったくできそうにないことを想像している。

そういえば、中学校のころに音楽の時間に簡単な曲をつくらされるという経験をしたことがある。それを十分に楽しんだ覚えがある。教室の隣の席に野球をやっていたH君が座っていたが、彼は作曲が苦手でいつも私はつくってくれと頼んだ。

それで何が何でも本人がまったくタッチしないのは気が引けるので、なんでもいいから音符を書けといったら、目茶苦茶のものをつくったので、それを少し手を入れた。

そしたら、このH君それを先生に提出した。その曲を先生がピアノでちょっと弾いてみて、なかなかいいとほめてくれたらしい。自分の席に帰ってきて、「あの曲ほめられたよ」とちょっと誇らしげで、かつ恥ずかしげであった。

高校のときには彼は西條高校に進んだ。そして野球選手として活躍した。彼は春および夏の甲子園に数回行ったが、もっとも夏の高校野球で全国優勝したのは彼の一年下の学年であった。

このときの優勝投手のK君は私の出たH中学校の一年下の学年であるが、私は中学校のころのK君のことをあまり覚えてはいない。

話が思わぬところに行ってしまった。いつも音楽と物理とをもっと密接に感じたいと思っているが、あまり突っ込んで考えたり、調べたりしたことはまだない。


-kunft, -zeug, -steigenのつく語

2014-01-17 12:43:22 | 外国語

またまたドイツ語ネタですみません。

語尾に-kunftがつく語にZukunft, Auskunft,Ankunft (すべて女性名詞)などがある。これらは順に「未来、情報(案内所)、到着」という意味である。Auskunftはドイツの駅などにInformationとか I とか書いてあるところもある。他に-kunftのつく語は今思い出さない。

(いま辞書を見たら、AbkunftとかHerkunftとか似たような意味の語を見つけた。どちらも生まれ、素姓、家柄を意味する。さらにHerkunftは由来と起源とかを意味するとある。同じような意味にもAbkunftも使われるようだが、その違いは詳しくはわからない)

ではつぎに-zeugに移ろう。すぐ思いつくのはFlugzeugであるが、SpielzeugだとかWerkzeugとかもある。それぞれ順に「飛行機、おもちゃ、工具」である。-r Werkzeugkastenというと「道具箱」のことである。Flugzeug, Spielzeug, Werkzeugはすべて中性名詞である。

最後は-steigenのつく動詞である。steigenは「山などに登る」ことなどを意味するが、それから前綴りがつくと変わった意味になる。

一番普通に使われるのはaussteigen, einsteigen, umsteigenであろう。これは順に「下車する、乗車する、乗り換える」である。absteigen, aufsteigenとかもある。これらは「降りる、のぼる」という意味である。

私の昔の辞書には載っていなかったが(注)、zusteigenという語も聞いたことがある。これも昔になるが、フランクフルトからフライブルクへのBundesbahnの電車に乗っていたときに車掌がIst jemand zugestiegen ?と言ってまわってきた。

(注) 最近の三省堂のクラウン独和辞典にはzusteigenはちゃんと「(乗客として後から)乗り込む」として載っていた。1970年代半ばに買ったシンチンガー氏監修の独和辞典には載っていなかった。もっとも最新版ではこの語も当然載っていることであろうが、最新版をもっていないのでわからない。


探している本

2014-01-17 11:28:38 | 日記・エッセイ・コラム

これは自分がもっているはずなのにどこにあるかわからないので、探している本という意味である。

ボルツマンについて書こうかと思ったので、ブローダという人の書いた「ボルツマン」(みすず書房)という本をもっていたはずだと思っているので、書棚を探したのだが、見つからない。

もっとも私などはなんども書棚を見てそれも数回そこにあるのに見過ごしてしまうという変な習性の持ち主だから、とぼけているのもこれはきわまっている。

それにしても昨年に線形代数の簡単な本を探していたのだが、見つからずほぼ一年後の最近ようやく書棚の隅にあることを見つけたというほどのとんまぶりである。

必要がなくなってから久しいころに見つけるという具合だから、役に立たないことおびただしい。

だが、図書館まで借りに行くまではいまのところ考えてはいない。一般にみすず書房の本はその作り方などが好きなので、大事にしていると思う。だからどこかにあるはずなのである。だが、それが災いしてどこかにあるのか見つけることができない。

そういう風なとてもおかしな日常生活を送っている。


Wann kommt die Maschine aus Tokyo an ?

2014-01-16 13:10:36 | 外国語

Wann kommt die Maschine aus Tokyo an ?(いつ東京からの飛行機は着きますか)という意味のドイツ語である。

wannは英語で言うなら、whenである。kommtは英語のcomeにあたる語の3人称単数の場合の定動詞である。定動詞というのは主語に応じて変化した形ということである。主語に応じて変化する前の形は不定詞または不定形という。

もっともここではkommtは単独ではなく、ankommenという形の分離動詞(trennbar Verb)と言われるものであり、「到着する」を意味する。この場合のankommenはanのところに強調のアクセントがあり、その前綴りが分離して文末に残る(注)。

aus Tokyoは東京からという意味である。英語ならfrom Tokyoとでもなろうか。

ところで残りはdie Maschineであるが、これは飛行機を意味する。もっとも飛行機というドイツ語は普通das Flugzeugという語がある。だが、ここではdie Maschineという語が使われている。

普通英語を知っている人なら、die Maschineは機械のことではないのかと思うであろう。その通りである。だが、こういう使い方もするのである。

こういう飛行機の意味があるとようやく知ったのはもう数十年も前のことではあるが、偶然のことであった。そのいきさつをわすれてしまったが、多分十分にドイツ語が話せないと自分で思ったためだろうか、そのころ滞在していた大学の秘書のお嬢さんに頼んで飛行機の発着の時間か何かを空港に聞いてもらったことがあった。

そのときにそのHolly嬢が言ったのが、上のような表現であった。そのときはじめてdie Maschineという語を飛行機の意味に使うということを知ったのであった。

先週のドイツ語のクラスでK夫人がR氏にバイクの数え方を質問していた。その答えがたとえば、Ich habe eine Suzukiといった答え方をするという話であった。K夫人の疑問はバイクはdas Motorradと中性名詞だから、なぜIch habe ein Kawasakiではなく、eine Kawasakiなのかという疑問であった。

R氏はこのときバイクはdie Maschineとドイツ人の頭のどこかに捉えられているからだろうということだった。それに反して車の場合はIch habe einen MercedesとかIch habe einen Toyotaという風にいうとのことであった。

これは車はder Wagenと男性名詞として捉えられているからだろうということであった。ちなみに車として外来語系の言葉としてAutoもあるが、こちらはdas Autoで中性名詞である。

ちなみに祇園祭りのときとかのお祭りのときに出る山車とかもWagenという。

(注) die Maschine ankommenが不定詞である。ankommenは主語のdie Maschineに応じてankommtと変化するが、主語がdie Maschine であるから、そのすぐ後ろにdie Mascihe kommtとなり、anは文末に残る。die Maschine が主語となっているから、die Maschine kommt aus Tokyo anという文ができる。

いまは疑問詞を用いた文章なので、Wannという疑問詞が文の先頭に来て、その後ろに定動詞の変化する部分が来る。そうするとWann (kommt) die Maschine aus Tokyo (an) ?という文章ができる。いま(kommt)と(an)と( )で囲んだのはこの二つのかっこでドイツ語の特徴である、枠構造が構成されていることを示すためでそれ以外に意味はない。


「ドイツ語圏とその文化」2号

2014-01-15 18:09:51 | 日記・エッセイ・コラム

サーキュラー「ドイツ語圏とその文化」2号の原稿の準備を始めた。まだ初めの取りかかりにすぎないが、しかしなんでもはじめがないと完成もないわけである。

季節の話題として、ファスナハトFastnachtについて書くつもりだが、まだ全くその構想もできていない。その前段階としてドイツの祝日と記念日の章をつくっている。

また、これが一番問題だが、「ドイツ語圏世界の科学者2」として誰をとりあげるか決めていない。

前回ミンコフスキーをとりあげたから、アインシュタインをとりあげようかと思ったのだが、彼の一番主要な研究業績は一般相対論だと思っているが、それをどのように取り上げたらいいかかいもく見当がつかない。

それで量子論の提唱者である、プランクを取り上げようかと思って、天野 清編の古い本を持ち出して一晩チラッとみたが、そのときにヴィーンという学者を先に取り上げた方がいいのではないかと思い出した。

そうこうするうちにボルツマンを取り上げるべきではないかと思い出したりとふらふらしている。

私の、「ドイツ語圏世界の科学者」での取り扱い方と目的は科学史ではない。むしろ科学の概念の一部をわかりやすく解説したいというところにある。しかし、そうは言っても科学史的な観点も無視はできないだろうけれども、どうしたものか。

いまはBoltzmannの原理についてわかりやすい解説を書きたいと希望をもっているが、さて短い時間の範囲内でまとめることができるのかわからない。

それでちらっとインターネットを検索したところでもそれにふさわしいサイトがあるようだ。もっともその説明はそんなに短くはない。

ということで結構取り上げる科学者を決める前に悩んでいる。


Moral behavior in animals

2014-01-14 11:30:49 | テレビ番組

昨夜のTEDのカンファランスの放送では上記の題でFrans de Waalという動物学者が講演をしていた。

彼の示したフィルムによれば、チンパンジーとか象とかの動物にもある種の道徳的な行動が観察されるということであった。

そういう動物の観察によって人間の道徳心がどういう風に起こって来るのかという考察が深められるという。

動物の協調性だとか、報恩だとかいわゆる人間に見られる道徳が動物に見られるかということが問題になっている。

あまりに擬人的なことはこれらの動物には考えてはいけないとしばらく考えられてきたそうだが、それが事実にもとづいて見直されてきたということだ。

西欧的な考えでは道徳は宗教と関係があるとのことらしいが、動物には宗教はないと思われるので人間の道徳も宗教抜きで生じてきたというようなことが推察されるらしい。

私などは宗教抜きでも道徳が存在するなどということは当然のことだと思うが、宗教が社会に当然の不可欠の要素として存在している西欧ではこれも当然ではなかったらしい。


理解できない

2014-01-13 17:14:08 | 日記・エッセイ・コラム

私の書いた本『物理数学散歩』(国土社)が出版社在庫がなくなったらしい。

ところが私のところにはまだ300冊以上在庫があるのに。それでだかわからないが、いまのアマゾンでも『物理数学散歩』は中古の取り扱いしかされていなくて、安い方でも約1900円の値段がついていた。高い方だと誰が買うのかと思うような7600円くらいの値段がついていた。

おかしな話であるが、出版社が私のところへは何も言って来ない。1200円などという安い定価の本は売ってもあまり利益にならないせいであろうか。

もともと200冊だったか引き受けてくれたのだが、売れないというので、私のところへ引き取ってくれと150部を送り返してきた。結局出版社が売ってくれた数は50部だったと思う。

いや、不平不満のつもりで言っているのではない。どうも要求があるところへ適切に届かないという感じがしている。それなら自分でアマゾンなりに出品して売ればいいのだが、それも面倒なのでそのままにしてある。

結局悪いのは私自身ということなのであろう。


青年と若者

2014-01-13 13:01:07 | インポート

今朝の朝日新聞の天声人語で青年と若者という語について知った。

天声人語氏によれば、

明治時代に「青年」という語が生まれ、広まったという。

もっとも青年には私は女性が含まれているとのニューアンスを感じない。多分私だけではなく普通の方もそう感じられるであろう。

一方、やはり天声人語氏によれば、

戦後の高度成長期からは「若者」がさかんに使われ出したという。

この若者の方にはもはや男性だけをさすというイメージはないから言葉としても男女平等の度合いは進んで来ているのであろう。


四元数の認知度

2014-01-13 12:38:29 | 数学

最近、『数学英和・和英辞典』(共立出版)、『数学英和小事典』(講談社)を購入した。

ところがこれらの辞典でどちらにもquaternion(四元数)の項目がない。特に『数学英和小事典』の方にははじめ5万項目を越える語を候補に上げたというからその中には入っていたのかもしれないが、それでも最後の選択からはずれたらしい。

これは『数理科学事典』(大阪書籍)初版でもそうだったから別に驚くことではないのだろう。このことはある意味で四元数が袋小路に入った数学ということでもあろうか(注)。

ただ、最近四元数について調べたり、書いたりしている私としてはちょっとさびしいと思うことである。

私の知っている限りでも日本語で書かれた本は四元数という語が入った本は4冊にしかすぎない。他にもあるらしいが、私の知るところにはない。

さすがに岩波の『数学辞典』、『理化学辞典』には四元数とかquaternionとかは落とされてはいないのでご安心のほどを。

(注) 『数理科学事典』(大阪書籍)は現在第2版がでているようである。こちらの方が事典としては使いやすくなっていると聞くが、四元数が採用されたかどうかはまだ確認していない。


日本文化

2014-01-11 11:58:16 | アート・文化

新聞広告に毎朝書籍の広告が載っている。

その多くはもちろん文科系のテーマの書であるが、たくさんの書が出版されている。これはそういうことを自慢しているととられるのは心外であるが、やはり日本の文化の高さを示している。

それらの本の中には翻訳のものもあり、翻訳しても誰が読むのだろうとこちらが心配になるような書もあるが、それが営業的にpayするかどうかは別にしてやはり日本の文化の高さを示しているといってよい。

もちろん、global化した世界に打って出る必要もあるし、私など英語でなんでも意思表示ができるほど外国語ができないとかいう問題はある。だが、一度その文化の高さを素直に評価してもいいのではないだろうか。

確かに理学書書籍目録に眼を通したら、たとえばの話だが、大学のテキストとしての線形代数の書は数十冊はあるだろう。

真面目にその数を数えたことはないので、それぐらいの印象しか言えないが、過当競争ともいえるぐらいの数である。

そんな国が世界にたくさんあるだろうか。いや英語でなら、それくらいのテキストがあっても不思議ではないが、日本はたかが1億2千万かそこらの人口の国である。英語を解する10億人を対象とするわけではない。

線形代数のテキストを例に挙げたが、これは微積分でも初等的な大学の「物理学」のテキストでもほとんど同じようなことがある。

いやそれどころか結構難しいという評判の量子力学のテキストだって20冊よりは多いだろう。テキストを書くのがいけないというつもりはまったくない。そういう国はあまり世界中にもないのではないかと言いたいだけである。

相対論の本の中でも難しいとと言われる一般相対論に触れたものでも専門家の書いたもの、非専門家の書いたものまで含めると多分10冊を越えるであろう。

そういう文化が日本にあるということを認めた方がいい。個々の書がレベルが低いとか間違いがあるということもあろうが、その点を日本のある意味での特徴ととらえた方がいいのではないかと最近考えている。


英文論文を見終わる

2014-01-11 11:28:43 | 日記・エッセイ・コラム

1月4日くらいから見ていた英文論文を昨日見終わった。

久しぶりに英文を書くという作業は楽しかった。元の日本語の原稿があり、それをもとに翻訳業者が訳した英文の論文があって、それを読んでいたのである。

英語翻訳をした人はnativeかもしれないが、あまり私などが使わない表現もあり、とまどった。

そこら辺りは勝手に変更を入れたが、終わりころになってこちらのエネルギー切れで翻訳をそのままとするところも多かった。

それでも翻訳はもともとの意味を十分にとらないで英文としての主語、述語を形式的に整えただけのところもあって、そこら辺りはしっかりと修正をしておいた。これは本当は日本語の原文があいまいでいけないのである。

もっとも困るのは専門用語であり、これはどういう専門用語が実際に使われているのかを知らないとどうしようもない。

これは専門用語かどうかはわからないが、非復元抽出という語があり、訳はresamplingとなっていたが、google検索をしたら、sampling without replacementとなっていたので、本当の用語は知らないが、これに変えた。ちなみに復元抽出はsampling with replacementとgoogle検索では出ていた(注)。

困ったのは先進企業と後進企業である。翻訳ではprogressive firmとregressive firmと翻訳ではなっていたが、当面advanced firmとretarded firmに置き換えておいた。これは物理を学んだ人なら知っている、advanced potentialとretarded potentialの応用であるが、さて普通にはどちらを使っているのだろうか。

google検索でも先進企業はadvanced firmと出たが、後進企業はさすがにretarded firmとは出て来ない。firm in next generationとかいう訳が出てきたが、はたしてどうであろうか。

(注) 最近購入した『数学英和・和英辞典』(共立出版)によれば、復元抽出はやはりsampling with replacementとなっている。

(2014.1.15付記) 上で英文論文を見終わったと書いたが、2回目の見直しをしている途中である。見直しをしてみると、やはりところどころに検討が十分でないところに気づき出している。

ということで、なかなか英文を見終わることが難しいのだが、ちょっと見るのが嫌になっているので、ちょっとした短い時間だけ見ている。

これは夜の11時半から12時半くらいまでの1時間の間だけコタツに入って見ている。この時間にはもう私が見たいテレビ番組は終わってしまっているから。


スト

2014-01-10 12:57:03 | 国際・政治

フランスではストは日常茶飯事だという。

だって、郵便従事者とか警察官とか学校の先生方のストもあるらしい。清掃員のストまであるらしいから、朝出したごみが回収されないなどということだってありうる。さすがに人権の国ではある。

私が中学生の頃だからまだ昭和30年代以前のことだが、中学校の先生が一斉休暇を申請したことがあった。

実際に私の先生たちが学校に来なかったということはなかったのだが、クラスメイトのある生徒が受け持ちの女性の先生に先生もストするんですかとまじに聞いたら、その先生はストではありませんというような答えをされた。公式にはストではなく、一斉休暇なのだから、その先生の言い訳は成り立つわけである。

これがフランスだったら、「当然ですよ」という受け答えになっていたのだろうし、それに第一、生徒が先生に非難がましく「先生もストをするんですか」などと尋ねたりはしないだろうと思うと国柄がちがうのだと思う。

Il y a une gr\'eve aujourd'hui. (イリア ユヌ グレ―ヴ アウジュルデュイ)(今日はストがある) (\'eはe アクサングラーヴを示している)

などということは普通にフランスでは話されることが多いとか聞いた。


ようやく元に戻った

2014-01-09 12:31:22 | 日記・エッセイ・コラム

年末とか正月で日常生活が少し乱れていた。

夜寝るのが普通は12時半か少なくとも1時には就寝していたのが、2時近くまでなっていた。それがようやく昨夜1時前後に就寝できた。

英文をみるという仕事をやっているからだったが、その英文を簡単に見れそうなところは終わって、残りは著者と相談しながらでないと進めそうにない。

それで一段落したという訳である。もっともこれからがシビアなところだが、数式が多かったりして文章はページによってはあまりないところもある。

それにそういう数式モデルをつくるところは文章の表現法は決まった言い方が使われることが多いので、ページとしてはまだ7~8ぺ―ジの分量が残っているが、ページ数ほどの手間ではないだろうと思っている。