物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

熊谷寛夫さんの書いた電磁気の本

2019-03-09 16:26:18 | 物理学

20歳前後に図書館で借用して、読んで感銘を受けて、その後それを自分で購入した本に熊谷寛夫『整理された電磁気学』(電気書院)があった。

実は自分で購入したら、その後、関心を失って読まなかったのだが、電磁気学の本の著者としての熊谷さんにずっと関心をもっていたので、そのほかの熊谷さんの電磁気学の本をその後にも数冊購入している。

いまちょっと関心が起きたので、熊谷さんが一生にどんな電磁気学の本を書いたのかを調べてみたので、ここに記録をしておく。

新しいものから書いておく。

1.電磁気学の基礎、実験室における(裳華房、1975)

2.近代電磁気学(電気書院、1968.11)

3.電磁気学演習(朝倉書店、1966.9)

4.電磁気学(朝倉書店、1965.3)

5.電磁気学応用I, II(朝倉書店、I, 1965.9, II, 1966.3)

6.整理された電磁気学(電気書院、1953.10)

7.静電磁気学(山海堂、1948)

以上の8冊であった。もっとも私が所有している熊谷さんの本は1、3、4、6の4冊しかない。

原子核実験が専門であった、熊谷さんがなぜ電磁気学に関心をもったのかは実は粒子加速器をつくるときにやはり電磁気学の概念がしっかりしないと実験がうまくできないということにあった。

加速器技術のような最先端の技術も電磁気学の基礎がしっかりしないと、やはりうまくいかないということを彼の本の序文を読んで知った。

電磁気学の本をいくつか書いた人には砂川重信(注)さんとか太田浩一さんがおられる。それぞれいい電磁気学の本を書いておられるのだが、それにしても熊谷さんほどの数ではないだろう。

 (2019.3.11付記) 電磁気学を熊谷さんの本で学んだという人は昔も今もあまりいないだろう。砂川重信さんの本とか太田さんの本とかでというならば、それが普通であろう。私が学生のころには高橋秀俊、電磁気学の本がよく読まれていたのではないかと思う。最近はE, B対応が採用されているので、E, H対応だった高橋さんの本は現在はお呼びではないだろうが。

(2022.4.7付記:注)電磁気学の書籍の著者は砂川重信さんであったのに、後藤憲一さんと書いていた。後藤憲一さんにも砂川さんにもお詫びをしておきたい。お二人ともすでに物故者であろうが、すみませんでした。お二人は初期の大阪大学の卒業生であったと思う。

profusion

2019-03-09 12:37:40 | 日記

profusionというフランス語を今朝知った。昔の仏和辞典をすぐに引いてみたら、豊富という訳語がついていた。

これはホワイトデーだとかで、バレンタインデーに知人にあげたチョコレートに対する返礼として妻がもらったクッキーの入った小さな袋に書かれてあった、仏文の中にあった。

文章全体をよくは覚えていないが、なんでもNous vous delivrons une profusion de couerとあった。「心をいっぱい込めて」とでもいうのだろうか。

ちょっとしゃれた言い回し(ドイツ語なら、die Redewendugen)であるが、そういう文章を考えるデザイナーもいるのだろうか(注)。

profusionは英語にもあるらしいが、私は英語でprofusionという語に出くわしたことがなかった。

妻がスマホで調べてくれたところではprofusionという語が出てくる例文が長々と16だかが、引用されていた。もっともその意味を妻には読み解くことはできない。

(注)言い回しのドイツ語Redewedungenは長い綴りであるが、これはRedeとWendungenとの合成語であるから、それぞれの意味を知っているとわかりやすくなる。

語尾の-enは複数語尾だから、Wendungが意味の主体をなしている。

Redeというと「演説」とかの話を思うし、WendungenではAnwendungen(応用)とかいう語も思い浮かぶ。またsich wendenとかを思いだす。wendenは「裏返す」とか「向きを変える」という意味をもつ。Wendungは「方向転換」とか「向きを変えること」という訳語がついている。

またVerwendung とは「使用」とか、「利用」という訳語がついている。


絵を描く人

2019-03-09 12:14:05 | 日記

今朝、妻の知人が美術館に絵を出展しているので、美術館に見に行った。特にその絵が賞をもらったということであった。

そのときに考えたことを下に書いた。

絵を描く人はたくさんいる。これは趣味として描く人がという意味である。

私などは絵を描く人くらいたくさんに、数学や物理をする人がたくさんいたらいいのになあという感じた。これは趣味か職業としてかは別としてという意味である。

もっとも、いつだったかこのブログでも書いたことがあるが、私が図書館で借りようと思った数学の本とか物理の本が先に誰かによって借りられているという経験を何回もしたから、世の中は広いと感じた。

これは借りて読んでみたいと思った、新しいフランス語の文法の書でも同じ経験をしたから、世の中にはそういう学のある人にはこと欠かないのかもしれない(注)。

ドイツ語に関係したことでも、いつかドイツ人の一団が松山を訪問したときには市内の名所を流ちょうなドイツ語で案内した女性がいたから驚いたことであった。

石手寺という88箇所の四国巡りの50何番かの札所の後ろの山にある弘法大師の像が石からできていると思っていたので、その人にaus Stein?と聞いたら、aus Betonと答えられた。Betonはコンクリートのことである。

よく考えたら、石でつくるのは費用がかかることだろう。だからコンクリートでつくられているというのは理にかなっていると思ったことであった。

(注)最近ある人の勧めもあって、ドイツ語の『必携ドイツ語文法総まとめ』(白水社)を購入したが、ドイツ語にかかわらず、外国語の文法の本は無味乾燥で買いたくないし、読みたくない。しかし、一種の辞書代わりの役目は文法書にはあろう。辞書を読んで面白いとはおもわないが、なにかを調べるときには役立つ。


SNS英語術

2019-03-08 09:50:42 | 日記

NHKのEテレの「SNS英語術」を好んで見ている。なかなかおもしろい。でもなかなか英語は上手にならない。

もっともそれほど懸命に学んではいないのだからしかたがない。ラジオでも学べばいいのかもしれないが、それはフランス語とドイツ語に限っており、英語はテレビで学ぶという方針をとっている。

これは人間何でもできるものではないからである。若い時に英語圏に留学していれば、英語ができるようになったかもしれないが、そういうことはしなかった。

それでも外国語には関心がある。年をとったいまは少し数学とかのほうに関心が移っているかもしれない。目下のところはベクトル解析に関心がある。

昨日は久しぶりに「物理のかぎ」のJohさんの「ベクトル解析」をプリントした。そのつぎに同じJohさんの「微分形式}「物理のかぎ」もプリントした。まだ全く読んではいないが、Johさんはなかなか優秀な人なので、十分よく書けているのではないかと思う。

Johさんは以前はイギリスの大学におられたが、いまは帰国されて一時は宇宙航空研におられたが、現在はどこにおられるのかは存じ上げていない。村上曜さんである。彼はどこかの出版社から物理の本を何冊も出されている。

だが、まだ「ベクトル解析」の書は出されていないのではないかと思う。


(2022.3.25付記)
その後、今年になって「物理のかぎ」のJohさんの「ベクトル解析」と「微分形式」を読んだが、もう一つしっくりこない。特にしっくりこないのは「ベクトル解析」のほうである。彼が力の限りを尽くして書いているのはわかるが、私にはそれでもまだしっくりこない。

これは誰のせいでもない自分のせいなので、自分で解決するしかない。

廻り神楽

2019-03-07 10:44:30 | 日記

先の日曜にみたドキュメンタリーの映画のもう一つである。

黒森神社という神社の神楽を演じる数人のグループに密着した映画である。

神楽は権現さんと言われる獅子か何かの頭の部分を模した、頭をもって踊る二人組とそれに音楽をつける太鼓と笛それに鉦である。

だから、最低限5人のグループであるが、たぶん見習の若手二人も含めて6人で構成されていた。いろいろな機会に神楽の踊りを奉納するらしかった。いろいろな踊りがあった。

人が亡くなった時の慰霊の踊りとか、山の舞と称する新築の家を祝する踊りとかいろいろである。

それを少しの変更もなく、次代に引き継ぎて行きたいという若者頭の方の話しもあった。

この舞台は岩手県だったと思うが、311の回想部分もあり、この東北地方を題材にしたドキュメンタリーならば、あの東日本の大震災、とりわけ、津波の記憶とはかかわりがいくらかある。無関係とはいくまい。

特に結論とかがあるという話ではないが、印象的なドキュメンタリであった。

 


一度書いたことがある

2019-03-06 11:45:20 | 日記

フランス語を学んでいて、ごっちゃになりそうな言葉にcoursとcourseとである。カタカナで発音を表すとクールとクルスとなる。意味はcoursは講義で、courseは買物である。

講義の方のcoursには語尾にsがあるが、このsは発音しない。一方、買物のほうのcourseは語尾がeだが、その前にsがある。この場合にはeは発音しないが、その前のsは発音する。

faire des courseだと「買物をする」という意味だが、faire des coursならば「講義をする」となる。

フランス人のフランス語の先生のマセさんとフランス語のカタコトで話していたときに、coursの最後のsを発音して、カタカナでいえば、クールと直されたことがある。

マセさんは私が大学の教師だと知っていたので、文脈で買物ではなく、講義だとすぐに分かって修正してくれたのだろう。


読んでいる途中だが

2019-03-06 10:04:03 | 数学

志賀浩二『ベクトル解析30講』(朝倉書店)のグリーンの定理である。ここで、はじめてなぜグリーンの定理の式の意味がはじめてわかった。

積分の中にdQ/dx-dP/dyがある。それぞれは関数Qの関係の積分と関数Pの関係の積分はそれぞれについて行われるので、どちらか一方だけでいいのではないかという疑問がTea Timeに書かれている。それがそうではないという理由がかかれているのは、他のベクトル解析の本にはない、指摘ではなかろうか。

これが、証明を見る過程だけではわからなかったことを志賀さんは示してくれている。ただ、ちょうどこの第16講以降は微分形式の記述へと傾斜していく。

この本を今まで読んだところでは、イデアルのところはまったく理解できなかった。これは別の書を読んでみなければなるまい。結城浩さんの「数学ガール」のシリーズの中のどれかにわかりやすく書かれていたのだが、頭にはまだ定着していない。

『ベクトル解析30講』にもどると、一つの講が短くて読みやすいことである。これだけ読みやすく書こうとすると著者の努力は並大抵ではなかろう。

続いて、『ベクトル解析30講』を読む元気が出てくる。

ベクトル解析についていえば、多くは並みの書だが、それだけでなく日本でも優れた書もいくつか出ている。

 


ロワール河畔の城

2019-03-05 11:15:19 | 日記

NHKのフランス語の初級講座「まいにちフランス語」でいま放送があった、ロワール河畔の城巡りは一つの観光の目玉である。

一番美しいという城はシャンボール城だと言われているが、そのつぎに河の上にある、シュノンソ城も人気である。これは王が、お気に入りの妃のために立てた城だとかということで、夏は河の上にある城だから涼しいかと思われた。

私たちが見学したときはたぶん3月初めだったと思うので、まだ寒かったと思う。パリにはじめて数日滞在した後での、ロワール河畔の城巡りであった。はじめはブロアの城である。これはちょっとした山の上にあったと思う。

シュノンソ―の城に入っていく前庭には羊が放し飼いされていて、それらがまったく観光客が入ってきてもみじろぎもしないので、羊の置物かと思ったものであった。 

大西洋沿岸のナントまで行くつもりであったが、途中で車のタイアがパンクして途中で旅は中断せざるをえなかった。

それからはひたすら雨の中を有料のフランスのアウトバーンをつかって、ドイツのザールランドを目指した。その近くで一夜の宿をとり、翌日はトリアーのポルタ・二グラ(Porta nigrak:黒い門の意)を見学したのち、マインツへと帰った。

 


軌道角運動量

2019-03-05 10:50:28 | 物理学

軌道角運動量とスピン角運動量とについてこの機会にまとめておきたいと考えるようになった。

これは編纂している小川「量子力学講義ノート」の例題として、小川さんが取り上げているのが、軌道角運動量である。

それでしぶしぶ軌道角運量のL=1のマトリックスのx成分を計算しようと数日前からしている。ちょこちょこっと紙片に計算してお茶を濁そうとしていたのだが、どうも結構、面倒な計算なので、もっと本腰をいれてやらなければ、ならないと考えはじめた。

量子力学のテクストにもあまり角運動量の詳しい計算をしていないものが多い。Gasiorowiczのテクストが詳しいが、他はあまり詳しくはないような気がする。これは単なる計算であるという考え方であるからだろう。

それがいけないということはないのだが、やはりどこかできちんと計算結果だけではなく、計算の手法を示しておくべきだろう。

すくなくとも日本語のテクストでは詳しい計算の手の内を示しているのはすくないのではないかと思っている。岡本良治『スピンと角運動量』(共立出版)が角運動量についての基本的な書となると思うのだが、やはり完ぺきというわけにはいかない。

私も補助的な話をラプラス演算子のエッセイの付録に書いたことがあるが、まだ十分ではなかった。今回きちんと書いておくべきだろうか。


「息の跡」と「廻り神楽」

2019-03-04 12:48:25 | 日記

「息の跡」と「廻り神楽」という二つのドキュメンタリー映画をコムズで見た。松山市の民間団体マネキネマの主催行事の上映会である。

どちらも岩手県の話とも思われるドキュメンタリーである。「息の跡」は東日本大震災で大きな被害を受けた気仙沼の種屋さん、佐藤さんを追いかけたドキュメンタリーである。佐藤さんは、種とか苗を取り扱う、いわゆる種屋さんなのだが、東日本大震災の特に津波被害を報告する大部の英語の本を書いた。それを500部くらい印刷した。売っているらしい。

これは津波の被害にあってもこれを記録に残しておかないと後世の人のためにはならないという、佐藤さんの強い考えからしたことである。なんでも記録に残しておかないといけないという思いがとても強い人である。

つぎには、中国語で書き、さらにスペイン語で書こうとしている。

津波の被害の記録は確かに残されていたのかもしれないが、つぎの津波のさいに根こそぎ、失われてしまったことを残念と思っている。ところがこの佐藤さんは世界的な記録を調べてみると、実は地元というか日本には記録が残っていないが、スペインかポルトガルから来た宣教師か何かの記録が1633年だかの津波の記録として残っていたという。日本には記録は全く残っていなかったのに。

佐藤さんがそれで英語とか中国語とかはたまたスペイン語で東日本大震災の記録、とりわけ津波の高さの記録を英語の出版物や中国語の出版物に残そうとしているのはそのためである。

彼が卒業した高校の建物も津波で壊れ、後輩の生徒もまた、彼が教わった高校の先生も多くが亡くなった。友人も友人の子どもや孫も亡くなったという。

自分が書いた英語の本を朗読する箇所がある。日本語の字幕もついてはいたが、私は英語の字幕を映画では追った。その発音は日本語風ではあったが、まさしく英語であり、ちゃんとした英語であった。

佐藤さんはいう。なぜ日本語でこの記録を書かなかなかったか。それは日本語で書くとあまりにも悲しくなるからだ。

この佐藤さんを密着撮影した、小森はるかさんはまだ21か22歳の女性である。はじめに佐藤さんが撮影している小森さんに聞くところがある。結婚でもしたら、そのままになるのではないか。

小森さんの答えは「いいえ」であった。佐藤さんもであるが、東北人はなかなか頑固であり、それゆえに頼もしい。

「廻り神楽」のことについて書くことは、また別の機会にゆづろう。

 

 


ドイツの春はファスナハトとともに

2019-03-02 16:35:30 | 日記

ドイツの春はファスナハトとともにやってくる。北国のドイツの国の冬は厳しい。寒さもきついのだが、それだけではなく天候がわるい。

頭を冬の間中は雲の中に突っ込んでいるような感じである。それで春の到来を告げることにもなる、ファスナハトは待ち遠しい。

ところが、これが北ドイツにはないというから不思議である。いわゆるカトリック教が信仰されている地方ではファスナハトの行列が盛んである。これは南ドイツが中心であるが、特に有名なのはマインツ、ケルン,デュッセルドルフ(いずれもライン河沿岸)の3つの町のファスナハトの行列は盛大であり、ローゼンモンターク(バラの月曜日)の行列を見に、世界の方々から観光客が訪れる。そして、その行列のだしの上に乗って移動している地元っ子はそのだしの上から惜しみなくボンボンの雨を降らせてくれる。

またこれら行列に参加している、地元っ子は外国人観光客に向けて写真のポーズを取ってくれるなどサービス精神も旺盛である。

私自身はその行列を見たのはもう40年以上も前のことである。もっともファスナハトはケルンではカーニバルと呼ばれているかもしれない。ただ、南ドイツではファスナハトの名称で親しまれている。

ファスナハトは断食の季節がはじまる前のどんちゃん騒ぎでもあるが、冬の陰鬱な気候へのうっ憤をはらすいい機会ともなっている。


『数学解析』を復刊せよ

2019-03-02 11:09:07 | 数学

溝畑茂『数学解析』(共立出版)を金曜日にE大学の図書館に借りに行ったのだが、結局借りて帰ったのは太田浩一『ナブラのための協奏曲』(共立出版)と志賀浩二『ベクトル解析』(朝倉書店)だった。

志賀さんの本は微分形式にかなり偏った本である。しかし、これは微分形式を学ぶのなら、これがいいだろう。志賀さんは数学者だけあって、その説明の仕方が、数学的であるが、かなりくだいた説明を心がけている。

そして、ガウスの定理やストークスの定理を微積分の基本定理に基づいたものとして説明しようとしているところは太田さんと同じでいい。

ガウスの定理やストークスの定理は微分形式で表すとその形が全く類似に表されるので形はきれいである。だが、それを「新しい和算の研究者」と言われたソリトン研究者であった、広田良吾さんなどはこれらの定理の意味もわからなくても計算ができてしまうなどと酷評してもいる。

まあ人はいろいろだから、気にすることはないけれども、広田さんのいうこともある意味ではわかりもする。

最近気づいたことはベクトル代数の公式から、ナブラの演算子を含んだ公式をそのベクトル代数の公式から導くときにはちょっとした注意をすればよいということである。

このやり方はファインマン『物理学』(岩波書店)でファインマンが使ったが、それにはちょっと承服しがたかったが、最近別のケースで同じようなことをしなくてはいけない場合があった。

ナブラは演算子なので、そのままの形でベクトルの代数の公式から、演算子に置き換えたときに、演算される対象がないときには、ベクトル代数の公式での因子の移動を演算子のほうが前にあるように変更してから使えばよいということがわかった。

ファインマンの指示は、なかなか実践的な変更法であるというのがようやくわかった。たったこれだけのことがわかるのに何十年も私にはかかった。頭のわるいことよ。

溝畑『数学解析』には最後の各章の要約のところにガウスの定理やストークスの定理と微積分の基本定理との言及があるが、これがその証明にどれくらい生かされているのかはちらっと見たかぎりではわからなかった。もっと明示的でなければいけないだろう。もっともこれは私の読み方がまだ浅いからかもしれない。

『数学解析』は他の点では記号法がベクトルを文字の上に矢印をつけてある。これはいけない。ベクトルはゴチック体で表すべきだろう。この点だけは私にはよくないと思えた。

しかし、『数学解析』がもう発行されていないとすれば、それは日本の大きな損失であろう。復刊を強く望む。

 


Grassmann

2019-03-01 15:35:07 | 数学

Grassmannはその一生を今でいえば、中学校と高校の教師(ドイツではこういう学校をギムナジウムという)として過ごした。いまや、このGrassmannの数学は微分形式やベクトル解析等で欠くことのできないテーマとなっている。

最近、若い日本の研究者が職を見つけられないために、30歳代の途中で研究者以外の職業を探す羽目になっているが、そういうチャンスさえGrassmannにはなかった。

もっとも、これはGrassmannの数学が時代をとても先んじていたからであり、同時代の人々からは理解されなかったという。これはその成果をなかなかわかりやすい言葉で表すということができなかったためだとも言われている。

同じような仕事をしたHamiltonの四元数の発見はすぐに一般に知られるところとなり、これが現在のベクトル解析のもう一つの端緒をなしている。ベクトルのスカラー積とかベクトル積とかはHamiltonの四元数の積から出てきたものである。

同時代人であり、大数学者だった、GaussもGrassmannの数学の書き表し方が哲学的にすぎているという判断だったという。幸いなことにGrassmannの考えを理解して、それを簡易化してくれた物理学者のGibbsをはじめとした学者がいなかったら、世間に知られずに終わってしまったかもしれなかった。


『ナブラのための協奏曲』

2019-03-01 11:27:55 | 数学

『ナブラのための協奏曲』(共立出版)を図書館から借りて来た。いい本だったら、自分でも購入したいと思っているが、アマゾンコムの書評があまりよくなかったから、心配になったのである。

ちょっと癖のある本だと思うが、それでも自分でも買って持っておくべき本だとの結論に達している。これと競争するようなベクトル解析の本を書くのはかなり難しい。

それでも、いつかこの本とは相補的な本を書いてみたいなどと、たいそれたことを最近考えている。この書は太田さんが自分で考えて書いた本だと思うが、私にもちょっと頭をかしげるところがある。それはそうだが、それでもそれを補って余りある、長所がこの本には十分にある。

この本にも「ガウスの定理とストークスの定理等は微積分の基本定理の一般化である」という主張をちゃんととりいれられている。やはり太田さんはみるべきところはきちんと見ている。

(2019.5.9付記)  結局、『ナブラのための協奏曲』は自分でも購入した。しかし、わるいことに自分で持ってしまうと読まないという悪癖が出ている。本は図書館で借りて読むべきかもしれない。