物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

自分にわかるということ

2019-05-18 11:13:26 | 日記

「自分にわかるということ」を私は単に理解したということでは満足していない。少なくとも二つ以上の方法でわかることをいつのころからか、それはかなり若いころからだが、自分に強いるようになった。

つい先ごろなら、軌道角運動量Lの2乗の固有値を求める方法を納得したいと思った。一つの方法ではすでに理解したつもりだが、もう一つの方法ではまだ十分に納得できるようになっていない。そこで、その理解が頓挫している。

ところが、現在はベルヌーイ数とか、ベルヌーイ多項式とかを使った、自然数のべき乗の一般公式の導出を学んでいるが、それが少なくとも二つの方法で理解したい。ところが二つどころか、一つでもまだ十分に理解していない。

ということで、なんでもやっている途中で、別の関心事が現れ、それがすぐに納得できるくらいにわかってしまうといいのだが、なかなかわからない。

こういうことをずっと続けてきた。しかし、若いころには時間を自由には使えなかったので、いい加減のところで放り出すことが多かった。

最近では時間は自分の自由に使えるので、いくらでも自分に納得できるまで、使うことができる。だが、そのために仕事がなかなかまとまらない。こういうことが現在私に起こっている。

どうしたらいいのか。

 


虎落笛

2019-05-18 11:02:54 | 日記

虎落笛は「もがりぶえ」と読む。今、岩波『国語辞典』(第3版)を引いてみたが、虎落笛は出ていない。

それで仕方なく、広辞苑を引いてみたら、もちろんこちらには出ていた。これは「冬の烈風が竹垣や柵にあたって発する音」のことだとある。

急に何を言い出したかというと、昨日と今日とは東風が強い。それで虎落笛という語を思い出したのである。窓の戸を少しだけ開けるとすごい音がするから、この語を思いだした。

日常語として、虎落笛などという語は使わない。短歌だったか俳句をする人から教わった言葉である。これは私よりは数歳年上の女性であったが、短歌を詠む方だった。


"Birds and Frogs"

2019-05-17 11:46:36 | 物理学
"Birds and Frogs" (World Scientific)は F. J.Dyson の論文選集である。
 
 本来的意味での彼の「論文選集」はすでに以前に出版されている。これは第二の論文選集といったところだが、講演のほうが多い。むしろエッセイ集といったところである。
 
読んでいてちょっと興味深く感じたところは、1945年以前のアメリカでは、量子場の理論はMathematical Extravaganceだったと書いているところである。
 
1940年代後半になって、共変形式の場の理論ができ、くりこみができるようになって、電子の異常磁気モーメントや水素原子のラムシフトとかが理論的に計算できるようになり、それが実験的に観測された数値と極めてよく一致した。
 
それで「量子場の理論はMathematical Extravagance」以上の自然の本質を反映したものであることが認識されたが、それまでアメリカでは場の量子論は自然の実在を反映したものだとは考えられていなかった。
 
これはアメリカがプラグマティズムの国であったからだという。量子電気力学の巨人といえば、いまでこそSchwinger, Feynman, Dysonに日本人の朝永さんということになる。
 
だが、Schwingerですら、場の量子論は知ってはいるものの、やはり、このプラグマティズムの影響を受けて、場の理論の重要性を認識していなかったという。Dysonはイギリス生まれであったから、そういうプラグマティズムの影響を受けていなかったために、場の量子論を学んでいた、数少ない一人であった。
 
これはDysonの述べることであるから、やはり説得力がある。もちろん、それからでも70数年を経過しているので、いまでもそういうプラグマティズムがアメリカで支配的であるわけではなかろう。
 
Mathematical Extravaganceはまだ辞書を引いてみていないので、はっきりはしないが、私の語感では「数学的な法外さ」とでも訳したい、感じがするが本当のところはどうなのだろうか。
 
"Birds and Frogs"という本のタイトルは科学者をいろいろなテーマを俯瞰して見ることのできる視野の広い人をBirdsといい、それほどではない人のことをFrogsといっている。Dysonは自分自身をFrogにたとえているらしい。ほんとうにそうだとは思わないが。

ベルヌーイの数と自然数のべき乗の和

2019-05-16 11:56:50 | 数学

自然数の任意のべき乗の和を求めることは、ベルヌーイがその公式をつくっているので、数学としては、すでに昔から解決済みのテーマだとは N 先生から以前に知らされていたことだった。

だが、私自身はそれがどのように解決されているのかを知らなかった。それで最近「数学・物理通信」に投稿をお願いした方の原稿に触発されて、はじめてそのことを自分なりに納得することができた。

これはインターネット上にあった、ある資料を読んで、それを自分なりにフォローして、ようやくベルヌーイの数と自然数のべき乗の和との関係を納得した次第である。これは昨日のことである。

「数学・物理通信」にも私も書いたが、自然数の任意のべき乗の和についての投稿がいままで結構あったのだが、この一般論について、自分で納得してなかったから、それを私個人としては断ることができなかった。

しかし、これでこの一般論が既知のことだからとお断りすることができるようになった。そのためには私なりのまとめをできるだけはやくしておかなければならない。


自分の独自の見解は?

2019-05-15 10:22:57 | 数学

自分の独自の見解はあるのか?

テンソル解析でLevi-Civitaの記号の不思議さに触れて、それについて詳しく調べたり、書いたりしているのはやはり別にオリジナルな研究ではないが、かなり私の独自なことではないか。

最近、外国でもTaha Sochiさんが、"Principles of Tensor Calculus"を出して、同じようなことが載っている。しかし、私がはじめてテンソル解析の学習するときの問題点を何十年も前に挙げたときにはそういうものは存在しなかった。

そして、市販の本としてそれが公にされたのはようやく2005年の小著『数学散歩』(国土社)(品切れ中)であった。

メラーの相対論の本にもLevi-Civita記号の縮約の公式は載っているが、その証明とかはない。それが一般化されたKroneckerのデルタと関係があることを知ったのは、穂苅四三二『テンソル理論と応用』(生産技術センター、1977)によってである。この本は復刻版を私が見たので、本当はもっと古い出版のはずである。

だからかどうかは知らないが、実は小著『数学散歩』(国土社)は品切れ中であるのに、私に何の了解もなく、そのPDFコピーを無料提供するサイトまである。

もちろん、このサイトは私の本のPDFコピーを提供することが主な業務ではなく、もっとおおがかりなものであり、ひょっとしたら法律的にいつか摘発を受けるかもしれいない。いわば、私は黙認していることになるのだが、本来、人の著書を無断でコピーして配布していいはずはない。


ベルヌーイ数

2019-05-14 10:35:50 | 数学

ベルヌーイ数に関心が出ている。それは「自然数の任意のべき乗の和を求める、一般公式をベルヌーイが導いた」ときに導入した数らしい。

ある方にそれについての数学・物理通信に寄稿をお願いしたら、書いて投稿をしてくれたのだが、その原稿を読んでもうちょっとわかりやすくならないかと思ってインターネットを検索したら、わかりやすく書いた解説があった。

ところが、その解説を読んでみたら、二項定理のところで昨夜ひっかかってしまった。二項定理については私も数回解説を書いたはずなので、今日、仕事場に来て昔の原稿を読んでみたら、その当時もいろいろ考えていたことがわかった。

それで、それを昨夜引っかかった箇所を自分のやり方で解読をしてから、先へ進めたい。それと寄稿してくださった方への返事もしておきたい。

もともと自然数の任意のべき乗の和の公式をどう導くかの手がかりを知りたくて、投稿をお願いしたので、その意味では投稿をお願いしたことの意味は果たしたことになる。

問題は、これのインターネットの解説のわかりやすい解説を自分でつくることである。


遺伝子

2019-05-13 13:51:48 | 科学・技術
昨夜のNHKの9時からは「人体」のシリーズで「遺伝子」を取り上げた第2回であった。
 
新聞の番組紹介欄に紹介があったことだし、それにそろそろ今年の徳島科学史研究会で話すテーマを決めなければならないので、関心をもってこの番組を見た。
 
というのは数年前に伊藤康彦『武谷三男の生物学思想』(風媒社)が出版されて、武谷三男がメンデルの遺伝学を認めなかったというので、だいぶん批判されたからである。
 
その後、メンデルの遺伝学自身は基本的に正しいものの、その遺伝子の発現させるかさせないかのスイッチがあるということ知られるようになり、これは「エピジェネティクス」と呼ばれている。
 
昨夜の話では2万もの遺伝子のスイッチがあるという。だから、昔風の獲得形質の遺伝は否定されているものの、遺伝子の影響はスイッチのオンとオフでその影響は大いに異なるということがわかってきた。
 
また、環境によって、遺伝子が変わってくるという可能性もあるかもしれないということになってきた。
 
だから、伊藤康彦さんの武谷批判は昔風の意味では正しいのだろうが、現代的な意味では果たして正しいのかどうか。というか、自然のいろいろの可能性までを考慮すると、そんなに簡単に批判してすむものなのか。
 
これが、今私の考えているところである。
 

Je ne suis jamais seul

2019-05-13 13:39:54 | 日記

これはシャンソンのフレーズの一つである。Je ne suis jamais seulは「いまだかって一人ぽっちであったことはない」とでも訳せようか。この後ろにはavec ma solitude(私の孤独と一緒だから)という文句が続いていたと思う。

これは男性歌手でもう亡くなった方の歌である。名前を失念してしまったが、有名な歌手の一人であることはまちがいがない。たぶんギリシャ系のフランス人ではなかったろうか。

これはやはり若いときにNHKのフランス語講座で聞いたリ、見たりしたシャンソンである。それが今朝ひょっとなぜか思い出された。

だいたい、孤独をわるいなどとは思っていない。私は誰かと仲良くすることなど苦手である。別に仲良くなりたくないわけではない。ただ、人とつき合うのがあまり上手ではないだけのことである。

しかし、Je ne suis jamais seulは、フランス語をあまり知らなくてもしゃれた言い回しではないだろうか。


旅人の歌上りゆく若葉かな

2019-05-11 14:31:02 | 日記

 旅人の歌上りゆく若葉かな 

      A traveler's song  (一人の旅人が歌を歌いながら)

      rising up the mountain tail (山すそを上がっていく)

      young leaves (若葉があざやかだ)

英訳の横のカッコの中はaoyama(ブログの筆者のペンネーム)の訳である。

これは、子規の明治27年 (1894)の俳句だそうである。これは今年のカレンダーに載っている俳句である。注釈などないが、この旅人は四国八十八か所巡りのお遍路さんであろうか。

このカレンダーには、俳句の横に写真がついていて、それは旧の遍路宿の写真である。私もその前をいつだったか通ったことのある、松山市の久谷の坂本屋である。

そして、その写真には傘を背中につけた白装束のお遍路さんがまさにその宿をはなれようとしている。ここは現在では、もう宿屋はやっていないのかもしれないが、お遍路さんの休憩ぐらいは、いまでも受け付けているのであろう。軒先には坂本屋の看板がいまもかかっている。


チコちゃんに叱られる

2019-05-11 11:24:04 | 物理学
「チコちゃんに叱られる」というNHKの番組がある。
 
なかなか面白いものでときどき見るが、これに関係した話しである。内容うんぬんではない。
 
要するに、この「チコちゃんに叱られる」では、ある疑問を提出して、その理由をただすというのが基本である。
 
ところが、ところが、この疑問の方は頭に残るのに、その理由の方はたいてい頭には残らないという事実である。
 
簡単な例でいうと、「鏡に映った自分の像はなぜ左右反対か」というのがある。これについてはいろいろ昔から議論があり、私も物理学者のなんとか先生の説明を聞いて、納得してそれが正しいとは思ったが、その説明は頭に残っていない。
 
それどころか、その説明をされた方の名前も覚えていないという始末である。もっともこの方はブログを書かれており、それも物理学の範疇のブログなのですぐに調べることもできる。
 
私自身に関したことでも、大学に勤めていたころには、授業の中で、こういう疑問を出して、しばらく学生に考えてもらい、それについて後で説明するという方法をしばしば用いた。
 
簡単な例でいうと、原子核から電子が飛び出す現象をベータ崩壊というが、では原子核の中に、素人考えでは、電子が存在しそうである。ところが原子核の中には電子が定常的に存在するわけではない。
 
「どうして定常的に原子核の中に存在しない、電子が原子核から飛び出してこられるのか」と、しばらく考えてもらう。
 
答えは「ベータ崩壊は原子核の中に存在する中性子が、陽子と電子とニュートリノに崩壊して飛び出してくる」である。
 
この答えを物理屋は知っているので、別に驚かないが、素人には難しいかもしれない。そして、その答えが私の教えた過去の学生に定着したかどうかは極めて疑わしい。たぶん質問も答えも頭には残らなかっただろう。

ドルを円に換えた

2019-05-10 13:31:06 | 日記
妻がハワイに行ったときに、つかったドル紙幣のあまりを小遣い代わりにくれた。とはいっても両替しても5000円になるかならないかの額である。

あまりそれで銀行に行く気がしてなかったのだが、きょうたまたま気が向いたので出かけた。

1ドルは100円ちょっとの値段がついていた。110円を切っていたと思う。持って行ったドル紙幣は51ドルである。

大体、あまり銀行に用はない。これは私には預金もタンス預金もないからである。ようやく、かつかつで生活をしている。

どうやって生きていけているのかが不思議なくらいである。

それで昼近くになって仕事場にやってきた。昨日も読んでいた本の式の計算がどうやって出てくるのか疑問である。これはまだよくわかっていない。

このテーマはLegendreの微分方程式の解法に関係している。

『ドイツ語への招待』

2019-05-09 10:11:30 | 日記

万足卓『ドイツ語への招待』(大学書林)は1959年の発行である。

この書をいつ買ったのかもう覚えていない。しかし、100ページ足らずの最小限のドイツ語文法の説明(予備編)の後に実習編としてのドイツ語の51編の文章が出ている。

この文章を音読して、暗記するくらい読み返しなさいという。万足先生は「ドイツ語文法は悪魔だが、ドイツ語自身はやさしい言葉だ」という。

それでドイツ語の文法を避けて、ドイツ語の中に入っていく方法を探るという趣旨でつくられた本である。そういう意味では画期的な本である。

しかし、この本がベストセラーになったかどうかを私は知らない。だが、私には目からうろこが落ちた思いがした本であった。

確かに、この本によって私はドイツ語ができるようになったわけではないが、それでもそれまでドイツ語とは得体のわからない言葉という思考を振り払ってくれるのに一役買ったのはまちがいがない。

今から考えてみるとやはり、ドイツ語の「文章のカッコ」(Satzklammer)(「枠構造」(Rahmenbau)ともいう)を理解してようやくドイツ語の不可解さから解放された。

最近では、ドイツ語を教える先生方も名詞や動詞の変化をあまり強調して教えないで、それらは随時慣れていけばよい。そういう考え方が一般化している。

それよりも文章の統語法を重視して教えるという風になっている。「定動詞第2位の原則」などを強調するのは、その現れである。

ただ、それだけではドイツ語がわかるようにはならない。助動詞構文とか現在完了とか受け身とかの構文のときに定動詞とそれ以外の動詞部分とが離れて文中に存在している。これが「文のカッコ」と言われる現象である。

例を挙げてみよう。
Heute (kann) ich wegen der Erk"altung nicht (schwimmen). 今日は風邪のために泳ぐことができない

のように(kann)と文末の(schwimmen)で枠がつくられている。これが「文のカッコ」と言われるものの一例である。

もし英語ならば、
Today I cannot swim by cold.
とでもいうのだろうが、助動詞のcannot と動詞swimとがくっついている。
 
(2019.5.18付記) 自分のドイツ語の知識を開けかすためにこの文章を書いたのではもちろんない。
 
かつての私のようにドイツ語の「文のカッコ」というドイツ語特有の現象があることを知らないために、ドイツ語を毛嫌いする人が一人でも少なくなることを願うからである。
 
フランス語を第3外国語として学んだが、私の経験では、フランス語ではそれほど戸惑わなかった。フランス語では英語と同様に複数名詞は単数の名詞に基本的にsをつければいい。
 
もちろん、フランス語で特有なこともある。目的語として使われる、代名詞は動詞の前に来るのが普通である。
 
一番有名な例はJe t'aime(ジュ テーム)である。英語ならば、I love youとyouはloveの後ろに来るが、youにあたるteは動詞aimer(エメー:愛する)の前に来るとか、形容詞は基本的に名詞の後ろに来る。
 
フランス語でも短い、特定の形容詞は名詞の前に来るが、基本は名詞の後ろに来るのが原則である。
 
 

 

 

 

 


なかなか終わりに

2019-05-08 10:31:19 | 物理学

なんでも、なかなか終わりにならないものだ。

昨日、軌道角運動量演算子の固有値について書いたが、今朝仕事場に来て、Merzbacher "Quantum Mechanics" (Wiley)を覗いてみたら、これにも昨日書いたことが書いてあった。

だが、まだ詳しく読んではいない。Gasiorowiczの本の方に最近では読むことの中心があったので、Merzbacherの本をちらっと見ただけでそのまま打ち捨ててあった。

今度はこちらをよく読む必要がある。昨日書いた二つの書のまとめをつくったのでいいのかと思っていたのだが。

Messiahの "Qunatum Mechanics" (North Holland) はなんだか難しいので、これももっているが、あまりこれを参照することは少ない。しかし、今回はこちらも参照してみる必要がありそうだ。

 


ようやくわかった

2019-05-07 16:49:42 | 物理学
ここ数日、量子力学での軌道角運動量演算子の2乗L^{2}の固有値をどうやって求めたかについての明確な説明を探していた。

どの量子力学のテクストにもこのことに触れてはいる。だが、それについて明確な説明を述べている本は意外に少ない。

一つはルジャンドルの方程式の解法に基づく説明であり、ともう一つは軌道角運動量演算子の範囲での説明がほしかった。

どちらも、今日になってようやく私にも納得のいく説明を見つけて読んだ。これを自分なりのノートにすることができるかどうかは、私に残された課題である。

一つは江沢洋『量子力学』(II) (裳華房)の9章「角運動量」のところの説明である。

もう一つは、まだ自分では手を動かして計算はしていないが、新田英雄『物理と殊関数』(共立出版)の第7章「中心力場の問題と球面調和関数」のところにあった。この説明はもしかしたら、他の数学の本にもあるかもしれない。




国籍

2019-05-07 11:19:19 | 日記

フランス人の1/4が祖母、祖父の代までさかのぼるといわゆる外国から来た人たちであるという。

日本でも在日の人も含めて、もし日本で生まれれば、とりあえず日本国籍を与えるという考え方になぜならないのであろうか。少子高齢化だとかを真剣に心配するならば、簡単にそういう方策をとるべきではなかろうか。

国策があまりにも頑なすぎる。在日の人にしても、まずは二重国籍にしろ日本で生まれた子どもには日本国籍を与える、そして自分で18歳になったときにどれか一つに決定させればよい。

もっと緩やかにするならば、二重国籍も許せばよい。国籍が二重だとどちらの国に忠実であるかに悩むかもしれないが、それでもいいのではないか。

これは今朝、妻との朝食後に話したことであった。

日本人としての視野の狭いままでは、おりたくはないというのが、現在の私の考えである。

「フランス人とは何かと問われるとフランス語を話す人がフランス人である」というそうである。それならフランス語のカタコトくらいなら、話す私も幾分かはフランス人でもあろうか。

これはもちろん冗談である。

(注)フランスには75の固有の言語があるという。これは方言ではなく、固有の言語が存在しているとか。

よく知られた固有の言語はバスク語である。世の中で一番難しいのはバスク語ではないかというのはドイツ人のR氏である。こんな難しい言語はないのではないかという見解をR氏から聞いたことがある。