物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

『英語独習法』の教え

2021-04-12 12:46:36 | 本と雑誌
『英語独習法』(岩波新書)の教えは4月10日に朝日新聞の書評によれば、日英に限らず、どの言語にも母語と非母語との間には氷山のような「土台構造」スキームのちがいがあり、それらを学ばねば外国語は身につかないと説く。

英語の場合にも母語とする人々がふだん意識せずに共有する概念、前提、文脈、関連語といった巨大な「氷山」が隠れている、という壮大な指摘がされているという。

こういうことをいう人は少数ではあるが、昔からいる。万足卓『ドイツ語への招待』(大学書林)はドイツ語の文法は嫌だが、ドイツ語はすばらしいという本であり、ドイツ語の内法を学んでも外法を学ばなくてはドイツ語は身につかないという主張であった。

内法は文法とか単語だが、外法はドイツ人たちのドイツ語を話す人たちの中に脈々と流れているものだという指摘であった。

それはドイツ語の中にしかないというのが、上に紹介した本の趣旨であった。「ドイツ文を暗唱できるくらいに数か月かけて覚えよ」というのがその趣旨であったが、それを実行することなく残念ながら無為の年月を重ねてきた。

それでもカタコトのドイツ語くらいは話すことができるようになっている。まあ数十年の年月を経ているのだけれども。

だから、NHKのEテレのドイツ語講座は「旅するドイツ語」とはいうが、旅するくらいなら面倒なことは私にはあまりない。一人旅をすることだって十分できると思う。

最近、少し物理づいてきた

2021-04-10 15:19:09 | 物理学
私は本来物理屋であり、数学者ではない。だが、退職後はかなり長い間数学めいていて、まったく知らない人だと数学関係の人だと思っている節もある。
 
数学者にしたら、あんなやつに数学について触れてもらいたくはないと思っているだろう。ただ彼らはたいてい紳士であるので、あからさまにはそんなことをいうことはない。

そういう事情であるのだが、物理の講義をするのが仕事であったので、その講義の準備のためにかなり講義ノートが残っている。

もっとも友人が外国に行って不在になった1,2年を除いて、あまり力学とか電磁気学の講義はしたことはない。ただ、振動と波動の講義とか熱力学の講義は退職になる前の数年は教えたことがある。

それと退職後に松山大学という私立大学の薬学部で一般物理を教えさせてもらった。もっともここも68歳が定年であり、非常勤講師でもこの年までであった。

定年後の1年は元の大学で量子力学を教えたし、理学部の非常勤講師も務めた。これは数年前に定年になった先生の後が一年補充ができないという後遺症のためにその一部を引き受けたためである。





エルミート演算子とは

2021-04-09 14:14:52 | 物理学
エルミート演算子とは何か。

いつだったかもう何十年も昔のことだが、応用数学の先生がソリトンの研究で有名な広田良吾先生を集中講義に呼ばれたことがあり、その講義に列席して講義を聴講していたときにある演算子を黒板に書かれたので、おもわずその演算子はエルミート演算子ですかと質問したことがある。

ところが広田先生くらいの権威になると「え、エルミート演算子って、なんですか」とつぶやかれたのち、悠々と講義を続けられた。

その「演算子の期待値をとれば、実数になるよう演算子です」とか答えねばならなかったのだろうが、即座にそんなに適切に答えられたかどうかわからない。

エルミート演算子の固有値は実数であるとか、実数を演算子に適用して拡張したようなものだとかいろいろ説明ができるのだろうが、なかなか的確には説明ができそうにない。

これは量子力学ではエルミート演算子の定義が元の意味から拡張されているためかもしれない。

いつか、きちんとその論をまとめておきたいと考えながらはたしていない。
ちなみに「その演算子の期待値をとれば、実数になるよう演算子です」という意味の説明があったのは、ボームの『量子論』(みすず書房)であったろう。



I 医師の逝去

2021-04-09 13:24:20 | 本と雑誌
I 医師が逝去したとドイツ語のクラスで伺った。この I さんは私たちのクラスのメンバーだったことが3年だったか4年だったかある。

I さんは旧制高校の卒業生だから、ドイツ語は高校時代に叩き込まれた世代であろう。ただ、英語は堪能だったが、ドイツ語のリスニングにちょっと難があった。

というのか、これは老齢による難聴のせいであったかもしれない。補聴器をつけてはおられたが、補聴器をつければよく聞き取れるということでもない。

それでも途中でクラスに入ってこられて、3年だったか4年だったか頑張って出席された。その頑張りは医師としてもそうであったかもしれないが、人間としても見事なものであった。

しかし、今回このブログに書こうと思ったのはそのことではない。つい先日俳優の田中邦衛さんとほとんど同時に青色半導体の発明でノーベル賞を受賞された赤崎勇さんが逝去された報が新聞に出た。

I 医師は大学だったか高校だったかは存じないが、寮でこの赤崎さんと同期であったと言われておられた。とても赤崎さんは静かな方であったとは I さんの言であった。

赤崎さんと I 医師のご冥福をお祈りしたい。ほとんど同時期に亡くなったのも御両者の頑張りにほかならない。

4次方程式の3次分解方程式

2021-04-09 12:40:39 | 本と雑誌
4次方程式の3次分解方程式というものの存在をようやく知った。

いままでそういうことを知らなくても別に困ることはなかったので、これからの人生でも困ることはないのだろうが。

それはそうと昨夜から新しいドイツ語のクラスが始まった。ところがこれが講師の声は聞こえすぎるくらいに聞こえるのに聞かさられるレコーダーの音声が小さくて聞き取れにくい。

これではクラスが全くの台無しだ。いままでも聞とれにくかったが、これはそれでもなんとか聞き取れた。ところが今回からはどうもだめだ。

これではおちこぼれが出そうである。他でもない、私自身が落ちこぼれるだろう。

線形代数学の見通し

2021-04-08 10:31:19 | 本と雑誌
1993年に「線形代数学」というタイトルの29ページほどのエッセイを書いていた。

自分でも忘れていたのだが、最近文通をするようになったある方が、このエッセイのことを思い起こしてくれた。

これは四数協(四国数学教育協議会)の学習会で話しませんかと依頼されてまとめたものであったが、どうも話をしたときの皆さんの反応がいまもう一つで、あまり評価が高くなかった。

それで私も価値がないのだと思い込んでいたのだが、今回読み直してみたら、けっこういいものであると思い始めた。

もっともこの簡潔さでは真意を理解してもらうことは難しかっただろう。だから、あまり反応がなかったのは理解できるような気がする。

それでこれをもう一度latexで入力をし直し、かつその後に書いたエッセイを参考文献に付け加え、また、新しいエッセイを書くことも必要かなと思い始めている。

実際にこのことを始めるのはまだ時期的には将来のことになるが、原稿を書くタネが見つかったことになる。

これに対応した微分積分学のコースも必要になるのだが。


今日もブログが遅くなった

2021-04-07 13:53:00 | 本と雑誌
今日もブログが遅くなった。遅くともお昼前には書いていたのだが、今日はちょっとしたハプニイングで遅くなった。

最近はブログを書くのが遅くなっているが、それとは同じ事情ではないのだが、おそくなったということだけは一致している。

マカフィーはまだ同じように警告してくる。最近はウインドウズでウイルス対策もされていると聞いているのだが、しつこい。

私はsource nextのワクチンを前には入れていたのだが、子どもからもうその必要はないのだと聞いたのはもう数年前のことである。

だが、マカフィーは親切なのかそれともしつこいのか。取り方であろう。

カタコト・ドイツ語礼賛

2021-04-06 10:34:17 | 本と雑誌
自分では「カタコト・ドイツ語」と言っているが、なかなかカタコトのドイツ語でも話せるようにはならない。ある意味でカタコトのドイツ語が話せるようなら、すばらしいともいえる。

多分聞くことが難しいかもしれない。そして間違っているとしても即応した反応ができれば、なおすばらしい。

大学で少なくとも6単位は単位をとったが、ドイツ語は「ちんぷんかんぷん」であった。「こういう言葉が読んででもわかる人はどんなに頭のいい人なんだろう」とほんとうに長い間思っていた。

そういうことを昔あるときに言ったら、あるドイツ文学者に「ああ、あなたは英語がよくできたんですね」と言われたことがある。私は英語が特別よくできるわけではないが、その評はある意味で当たっていると思う。

意味するところはこうである。ヨーロッパ起源の言語はすべて英語と同じ語順だと思い込んでいたからである。英語以外の語順のヨーロッパ起源の言語があるとは思わなかった。

だから、逆にドイツ語でつまずいて、ようやく文章の語順は英語以外の語順があり得るのだとはじめて知った。

そういう意味ではフランス語でも英語とは異なる語順をとるときもあるが、あまりドイツ語ほど大きく独特のところはない。ドイツ語を学んだときの、そのショックが他の言語の習得の独自さを知るという考えをつくってくれた。

(2024.2.8付記)現在あるドイツ語のクラスを辞めようとしている私がいる。ドイツ語が使えるようになるという目標からはさらに遠ざかるというなさけない私である。だが、人間の人生にとっては外国語だけが主要な目的ではない。だからこういうこともありうるというのが、私の言い訳である。

もしも、達意の外国語を話すためが私の人生の目的ならば、他の選択肢はないのだろうが。そういうこともできたらいいとは思うが、私の人生の第一の目的ではない。

サッカー選手の名言 (5)

2021-04-06 10:20:28 | 本と雑誌
昨夜もNHKの「旅するドイツ語」でのFuballzitateは

Spiel dein leben.  Ich spiel meins.

だった。意味は「君の人生を楽しめ。私は私の人生を楽しむ」だろうか。
spielenは遊ぶとかいう意味だが、それから派生していろいろの意味がある。

楽器を演奏するもspielenなら、サッカーをするもspielenだし、子どもが遊ぶのももちろんspielenである。

それから演劇を演ずるのもspielenである。これは基本的な単語であり、たぶんドイツ語の基礎単語1000語の中に入っているだろうが、なかなか含蓄のある言葉である。

マカフィーというワクチンソフトは?

2021-04-05 14:13:49 | 本と雑誌
「マカフィーというワクチンソフト」はどうも人を脅迫するようなことを行っているのか、それとも、私のパソコンが本当にウィルスに侵されそうなのか。

どうも強烈にウイルスに侵されるぞと脅迫まがいの行為をしてくると思える。

もしマカフィーというワクチンソフトのいうことが正しいとすると、まあ私のパソコンは近日中にカタストロフに陥るであろう。それはある程度覚悟のうえである。人を脅して利益をうるような手法は許されていいはずがない。

ブログを書くのもこうしてうっとうしくなってしまった。

5次以上の代数方程式には

2021-04-03 11:49:57 | 数学
5次以上の代数方程式には解の公式がないことはよく知られているが、それの証明を私は知らない。

いま、投稿された原稿で、解の公式の存在の有無にすぐに答えるものではないが、それに関係した論文を読んでいる。というか、論文が手書きなので、パソコン入力している。latexの原稿に変えているのだ。

興味深いのだが、どうも原稿の推敲がたりないと思われる。これはなぜそうなるのかと考えると、原稿がたぶん手書きであるからだろう。手書きだと推敲しようにも清書するのが面倒になる。

だから、清書の労力を考えるとなんらかのパソコン入力した原稿をつくる必要があると思う。著者の方にはパソコンの購入を勧めるつもりである。

知的な作業を進めるにはパソコンでの文書作成が欠かせないと思う。

今のようにパソコンで文書がつくれなかったころのことだが、日本語での論文をつくるにも最低5,6回は清書をしたと思う。多い場合には7,8回にもなったと思う。

それに大学院では私が論文の草稿の使った用語がところどころに、まるで大海に浮かぶ島のように、残ったと思えるくらいに先生によって修正されてかえって来たものだ。この年になると、逆に私がかつての私の先生のような役を務めるというめぐりあわせとなっている。







畳の上の水練

2021-04-02 17:09:50 | 本と雑誌
畳の上の水練といっても水泳に関係したことではない。

私にとってのフランス語がそうだという意味である。まったくフランス人と話をしたことがないとかそういうことを言ってはいない。まあ、私だって数十人のフランス人とはこれまで生きて来た80数年で話してはいるだろう。

しかし、数百人とはなってはいない。圧倒的に訓練不足なのである。畳の上の水練とは私にとってつまりはNHKのラジオでのフランス語講座なのである。もちろん、テレビの「旅するフランス語」などももう何年も見ている。

それでも圧倒的に母語としてのフランス語を話す人との接触は少ない。大学に勤めていたから、ときにフランス語の講義に先生の許可を得て、出席したことが3度ある。いずれもほぼ出席した。

ときには先生にフランス語で質問したりもした。だから同席していた学生からはそんなに話せて羨ましいなどと言われたこともあるが、実はなんでもいうことができるわけではなく、限られたことしか言えない。だから、まだまだなのである。

私は外国語というのは音が一番重要だと思っている。それで英語を除いて一番初めに音声として接した外国語はフランス語である。つぎはイタリア語であり、第4がいま一番自分では話せると思っている、ドイツ語である。

しかし、それだってカタコトドイツ語にしかすぎないのだろうが。




ブログを書くのがうっとうしい

2021-04-02 15:41:37 | 本と雑誌
これはブログを書くのが嫌いだという意味ではない。

なんだか変なものにとりつかれてしまったみたいで、それがうるさいという意味である。困ったものだ。

これは個人のしていることかどうかはわからない。少なくとも私とつきあいにある人のしていることではない。不正なこと、または、人に恐怖心を与えるようなある種の脅しであるので、けしからんことだと思っている。

もっともどう対処していいのかわからない。こういうことがインターネットを使っている多くの人に同様に起こっているのだろうか。


「幸せとは健康と記憶力の悪いこと」

2021-04-01 13:41:23 | 本と雑誌
今日の朝日新聞の耕論というコラムに「ビジネス英語の極意」3人の人の意見が載っていた。

その中につい先日までNHKの「ビジネス英語」の番組を32年にわたって担当していた杉田敏(さとし)先生の話の中にあった文句である。

アメリカ出張である人に再会したので、声をかけたら、『「幸せとは健康と記憶力の悪いこと」だと言いますが、すません。どこでお会いしたのだったでしょうか』と返答されたという。

なかなかしゃれた言い回しなのでここに記載しておきたい。

英語では
 Happiness is good health and bad memory.
というのだそうである。こう言われた後ではけっこう話がはずんだのではあるまいか。

(注)ついうっかりとHappinessをhappyと書き間違えていた。恥ずかしい。



最近イライラすることがあった

2021-04-01 12:01:11 | 本と雑誌
これは自分で自分がしたことが原因なのでしかたがない。このブログではつき合いのある人の悪口は言っていないつもりである。

しかし、これは私に失言がないということではない。いつだったかインターネット上でつき合いのあった人の逆鱗に触れてしかたなく、半月ほどこのブログを閉鎖する処置をとったこともある。

これは自分の失態であるから仕方がなかった。それでその人を恨んだことはない。