時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

人はなんのために働くのか

2009年08月04日 | 労働の新次元

 
 「引退」「退職」 retirement というと、なにかネガティブな印象を持つ人が多いようだが、実はこれこそが人生の最も大切な時期なのだと思うようになった。以前にも記したように、人生の時間軸上には「教育」、「労働」という段階に続き、「引退」「余暇」の時期が直線的に並んでいると考えれば、前の二つの時期は、最後の段階を充実するための前段階とさえ考えられる。寿命が延びた結果、この時期は
もはや「余生」といわれる長さではなくなった(ちなみに、20世紀初頭、アメリカやヨーロッパの主要国の平均寿命は50歳くらいだった。日本でも人生わずかに50年といわれたことがあった)。

西欧的考えと変化
 もしある条件が充足されるならば、生活の労苦など、
さまざまなしがらみ、束縛から解放され、真に自分のやりたいことに時間が与えられてもよい段階のはずだ。そのためには、労働の時期からできるだけ早く離脱できることが望ましい。そして、この時期を支える体力・気力と経済的基盤が必要だ。退職時期が遅くなると、最も重要な体力・気力が衰えてくる。西欧諸国で、50歳代での退職を希望する人々が多いのは、このためだ。とりわけ西欧社会では労働している時間は、「苦役」   toil and trouble の時であり、それはできるだけ短くありたい。真に人間としての自分はそれから解放された時にあるのだという考えが、まだどこかにある。これまで労働時間短縮を支える力となってきた。長いヴァカンスへの渇望もこうしたところから生まれてくるのだろう。

 一時期、労働時間が傾向として短縮することで、人生のあらゆる段階に自分の時間、余暇を持つことができる時代が来るのではと思われた。 しかし、近年、こうした願望を制約する変化が強まってきた。

 アメリカの例を見ると、平均寿命の伸長と医療コストの急騰で、平均的な労働者にとって引退後に必要な生活費が大きく膨らんだ。他方、生活を支える社会保障と企業年金は、減少傾向がはっきりしてきた。企業は引退者に医療保険給付を支払えなくなっている。 

労働期間を延ばす
 このため、医療など社会保障システムの見直し、企業年金の財源支援、401(k)プランの再設計などが重要な課題となってきた。しかし、この方向には政策上も限界が見え、労働者の労働生活を長くする以外に有効な道がなくなっている。

 アメリカでは退職年を2-4年間延長すれば、2030年まではなんとか今日の水準を維持できるのではないかとの推定もある。いいかえると、現在のアメリカ人の平均退職年齢の63歳を66歳近くまで延長することを意味する。労働者の健康状態は全般としてみると改善されており、退職の先延ばしは非現実的ではないという見方だ。しかし、これまで50歳台の引退も多かったアメリカでは、退職年齢が引き延ばされることに反対も強い。(ちなみにアメリカでは、年齢差別禁止の立場から強制定年制はない。退職時の決定は、原則労働者個人の意志決定による)。

 この労働期間を延長する政策の実現のためには、使用者や政府が高齢者を雇用し続ける努力もしなければならない。そして、労働者が60歳台半ばまで働くためには、引退後の生活について、経済的な裏付けが保障される必要がある。使用者、労働者、政府などの大きな努力が必要だ。

 高齢化時代へ対処するため、労働者の労働生活を延長しようとの動きは日本やEUでも強まってきた。たとえば、フランスでは現在60歳の法定定年年齢を60歳代半ばまで引き上げ、高齢者の就労を促し、年金支給年齢を先延ばしにして年金財政を改善することが検討されている。フランス人の平均引退年齢は現在57歳前後であり、労働組合の反対も強く、導入には紆余曲折が予想されている。

自分で決める人生
  フランスの場合、経営側は定年を63歳まで引き上げるよう提案しているが、労組側は労働条件の悪化につながるとして反対している。年金財政の改善のために、長く働くという考えに拒否反応が強い。

 高齢化の進行に伴って、各国でこうした「年齢連関型公共政策」age-related public policy が増えてきている。 しかし、年金や社会保障制度維持のためにこれまで以上に長く働かされるという構想は、本末転倒だという批判も強い。

 日本人の間には、「仕事が生き甲斐」という考えも根強いが、すべての人がそう考えているわけではない。仕事は自分や家族の生活の糧を得るためで、自分のやりたいことは別にあると思っている人は多い。それが可能になる人生は設計できるのだろうか。人間はなんのために働くのかという根源的問いが、現在の政策思想に欠けているようだ。

 

 

☆ このブログもそろそろ夏休みに入ります。

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セルフ・サービス社会の明暗

2009年07月24日 | 労働の新次元

 

自販機の氾濫
 イギリス人の友人が日本に来て、町中の自動販売機の多さに驚いていた。確かに大都市などでは100メートルおきくらいに、清涼飲料水、コーヒーなど各種のドリンクの自販機が林立している。きれいに管理されているものもあるが、汚れ放題で商品の確認がやっとというものもある。夏には冷たい飲み物、冬には暖かい飲み物など、管理も大変だと思う。

 半世紀近く前に、サンフランシスコで自販機の店オートマット(自動販売機による24時間営業カフェテリア)を経験した時は、なるほど便利なものだと感心した。しかし、入るのは一寸勇気がいる雰囲気だったし、これが食生活の未来の姿のひとつかと思うと、あまりにも味気ない感じを否めなかった。

 その後の日本でこれほどまでに自販機が普及するとは予想しなかった。日本中で、これだけの数の自販機を日夜動かすために、どれだけの発電所が動いていることか。自販機は確かに便利だが、明らかに過剰な設置ではないかと思う。しかし、ほとんど真剣に議論の対象とされたことがない。日本人はあまりにもその利便性に慣れすぎてしまっているのではないか。省エネ、都市の美観という点からも、多すぎる自販機はなんとか適正な配置にできないだろうか。日本に設置されている自販機は、2008年時点で526万台(内、切符など券類自販機は42,800台)との統計がある。

目を見張る進歩
 
日本のように変化の激しい現代社会では、多少のことでは人々は驚かなくなっている。鉄道などの駅の改札口に駅員の姿が見えなくなって長い年月が経過した。銀行へ行っても、かつてのようにカウンターで行員と話す機会は激減した。ほとんどの仕事は、ATMですんでしまう。最近の自動改札のシステムなど、確かに画期的だ。あの磁気カードの認識の早さは驚異としかいいようがない。大都市ラッシュ時の雑踏など、とても人手では対応できない。日本のような大量輸送システムが発達していないイギリス人の友人は、ラッシュ・アワーの駅頭の改札状況を見て仰天し、写真を撮っていた。

  失業が深刻化すると、ひとつの原因として、仕事が中国や東南アジア諸国など低賃金の国へ流出しているとされる。たとえば、アメリカ人にはそうした考えを持つ傾向が強い。しかし、そればかりではない。機械化・ロボット化を通して、顧客へ仕事を肩代わりするセルフ・サービス化が進行している。しかし、その評価はなかなか難しい。

セルフサービス化の評価
 高齢者は機械操作が苦手な人が多く、窓口で係員と対面で用事を済ませたいと思う人が多いようだ。ATの前で立ち往生している高齢者をよく見かける。年金受給日の郵便局の窓口などは長蛇の列だ。他方、若い世代は機械に慣れており、対面での処理はむしろ煩わしいと思うのか、自分でやることを選択する。

 自動化は確かに設置側には有利だ。最近はスーパーマーケットでも、レジに並ばず、顧客が自らバーコードを機械にかざしてチェックアウトするセルフ・スキャンニング・レジ・システムを導入するところも現れた。1台の機械は従業員25人分の仕事をするという。しかし、レジ係の人と話をするのを楽しみにしている客も多いようで、予想したほど普及しないらしい。オックスフォードのスーパーの店先の片隅で、毎朝紙コップでコーヒーを飲みながら、世間話をしている高齢の人たちを見ていた。きっと一日で、ほとんど唯一話をすることができる時間なのだろう。

 日本の労働力が急速に減少してゆくことを考えると、機械化は不可避でもあり、望ましいことかもしれない。しかし、セルフサービス化は、消費者にかなりの努力を要求する。最近は機械の画面表示などもかなりわかりやすくなったが、対応に苦痛を感じる人々も多い。

 ガソリンスタンドでも、セルフ・サービス化が浸透するかに思えたが、2割程度らしい。撤退もあると聞く。10年ほど前、イギリスで暮らした時に最初は面食らったが、すぐに慣れた。セルフ方式しかないとなれば、否応なしに使わざるをえない。

 こうしたセルフサービス化の結果は、なにをもたらすのだろうか。セルフサービス化によって消費者に転嫁された努力の部分は、いかなる形でサービス価格の低下に反映するだろうか。「セルフサービス化社会」については、かなり以前から語られているが、雇用との関連でも多くの問題が未検討のままに残されているように思われる。


 

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上を向いて歩こう!

2009年07月14日 | 労働の新次元

白馬の大雪渓を登る人々(友人R.E氏のご好意による)。
雪渓上に蟻の列のようにみえるのが登山者です。  



  就職ガイダンスにかかわるNPOや奨学金基金のお手伝いをしていることなどもあって、転職・就職の相談を受けることが多くなった。大学院進学など新たな充電の機会を考える人もいる。現職とはまったく異なる職業分野への転換を目指す人もいる。ほとんどが、20歳台後半から30歳代、「キャリア形成の半ば」、いわゆる mid-careerの人たちだ。なかには40歳台に入って、転身を考える人もいる。学校を卒業、社会に出て、さまざまな壁や限界を認識した人たちが多い。壁を乗り越えたり、回避しようと考えての転進だ。こうした転換は、これまでの世代にもなかったことではない。かくいう私も同じ経験をした。転職をするなどと告げると、奇異な目で見られた時代だった。しかし、いまや転職経験が無い人の方が珍しいかもしれない。  

 仕事を求める人、とりわけ若い世代の人たちは、これからどこを目指すかということをよく考える必要がある。目先にとらわれず、少なくもこの先5年、10年先を見通す努力が必要になっている。神ならぬ身、われわれに未来が読めるわけではないが、人生設計として目標があるとないとでは日々の過ごし方が大きく異なる。目前のことだけに心を奪われ、振り回されていると、いつか再び同じ苦しみを背負うことになる。人間は追い詰められるほど、視野が狭窄化してしまう。  

大きく変わる産業イメージ 
 グローバル大不況というと、ともすればその暗く陰鬱な側面だけが目に映る。しかし、反対側では今まで見たことのない新たな側面が姿を見せている。産業構造の変化はかつてなくドラマティックだ。競争力を失った企業、産業が、朽ちた大木が折れるように消えて行く。デトロイトの風景は様相一変した。他方、ひこばえのように、新しい産業が生まれている。   

 かつて存在した仕事のある部分は、景気が上昇軌道に乗っても戻ってこない。たとえば、20世紀後半の産業界を支配していた自動車産業が消え去ることはない。しかし、少なくもこれまでの自動車産業の輪郭をイメージするかぎり、ひとつの時代が終わったことは確実だ。あの膨大な下請け企業群を傘下に擁するピラミッド型産業組織は大きく変わりつつある。一世紀近くを支配したガソリン・エンジンの時代も遠からず終わる。自動車産業を構成してきた部品・関連産業の様相は激変、必至だ。ミクロで近づきすぎるとかえって分からなくなるが、ある距離を置いてみるとその変容の速度に驚かされる。最初にデトロイトを訪れた頃は、その壮大な光景に驚かされたが、その後の荒廃の速度は想像以上だった。 

 他方で新しい産業がすでにその姿の一端を見せ始めている。医療、環境関連、教育などだ。この領域では不況にもかかわらず、新しい仕事が生まれている。大不況の渦中にあって、多くの先進国の雇用政策は、未だ暗中模索だ。その多くは目前の現象に強く束縛されている。失業者を以前の仕事に、少なくとも類似の仕事の機会に戻すという発想が根強い。しかし、長らく経済活動を牽引してきた自動車、電機、素材などの産業は、基盤が大きく揺れている。修復されるにしても、かなりの時間がかかる。  

資産の棚卸し 
 自分の持っている知識、技能はなにか。身につけた資産の棚卸しが必要なのだろう。これからの人生、どこを目指して生きて行くか。自分がやりたいことで人生を送れるならば、それは最も望ましいことだ。仕事に積極的に打ち込むことができる。働きがいは生きがいとなり、技能も身につく。しかし、その仕事はあなたのこれからの人生を支えるに十分なものだろうか。一生続けるだけのやりがいを感じられるか。これらの点を見定めることが必要だ。  

 そのためには、多くの人の意見を聞くこと、とくに人生の年輪が深い人、多くの労苦を経験した人の考えを聞くことは有効だ。単に聞くばかりでなく、疑問と思うことを納得するまで議論してみることだ。もちろん、最後は自分が決める。

自分の人生:よく考える 
 目標が定まれば、そのためになにをすべきか。時には、回り道をすることも必要だ。充電のための資金と時間を蓄積する、不足している知識と技能を習得するなど、やるべきことは多い。一人の人間に与えられる時間は有限だ。自分が本当にやりたいことを、少しでも早くスタートしておくことが後悔が少ないように思える。若いときほど、展開の可能性が広く大きい。歳を重ねるごとに、自分のできることの限界が見えてくる。これまでの自分自身の人生を振り返ってみても、かなりの紆余曲折を経験した。しかし、無駄な時間を過ごしたとは思っていない。苦労した時代の経験の方が今に生きている。他の人とは異なった経験を積んだということが、むしろ自分の強みだと思えるようになった。学校で学んだことよりも、他の機会に得たことの方が圧倒的に力になった。多くのキャリア形成にとって、学校の与えてくれるものは限られている。社会から学ぶことはきわめて大きい。 

 若い人たちと話をしていると、時々自分の過去をリセットしたいという感想も聞かされる。しかし、コンピューターの工場出荷時のように、白紙の次元へリセットできないのが人生だ。自分が身につけたものを再点検し、経験をプラスに生かすこと、それが次の段階への踏み台になる。過去は人間を次の段階へ押し上げる礎石となる。過去にとらわれず、上を向いて登ってほしいと思う。

「われわれは過去を振り返るのではなく、未来を見つめるべきだ」(バラック・オバマ)

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われわれは長く生きすぎたのか

2009年07月10日 | 労働の新次元

Photo: YK


人生の3段階

  現代に生きるわれわれの人生は、概して3段階から成っている。第一段階は、この世に生まれてしばらく過ごすフォーマルな「教育の時代」だ。義務教育を終えてから高校、大学、さらに大学院まで行く人もいる。第二の段階は「仕事の時代」となる。仕事の内容は、当然人によって異なる。時間的には最も長い。個人差があるが40年前後だろうか。そして、第三の段階は「引退・趣味の時代」だ。それまで働き続け、疲れた心身を癒し、自分の時間を楽しむ時だ。Third Wave「第3の波」の時期という表現もある。

  「ハッピー・リタイアメント」という言葉があるように、西欧社会では、多くの人がこの時が来るのを楽しみにしている。人生の醍醐味は、この時期にあると考える人々も多い。仕事や育児などに忙殺され、失われていた自分の時間を回復できる貴重な時だ。50歳台で退職する人も多い。  

 ところが、近年様相が変わってきた。多くの国で長寿化と年金財政の負担増で、年金支給年齢が引き上げられ、対応して退職の年齢も高まりそうだ。退職しても公的年金など資金的裏付けがなければ、第三の段階も人間らしく生きられないからだ。

年金は長寿のご褒美
 歴史的には、ビスマルクが1989年、70歳以上の国民に年金導入をした時、プロシア国民の平均寿命は45歳だった。年金は長生きをしたご褒美のようなものであった。状況はイギリスでも同じだった。1908年、ロイド・ジョージがイギリスの70歳になった貧困者に週5シリングを与えることにした時、貧困者で50歳まで生きられた者は幸運に恵まれた稀な存在だった。そして1935年、アメリカが社会保障システムを導入した時、公的な年金支給年齢は65歳だった。当時のアメリカ人の平均的な死亡年齢は62歳だった。年金財政は安定し、国家はなにも心配する必要がなかった。

 今日、OECD諸国では私的年金は別として、GDPの7%以上を公的年金が占めている。2050年にはこの比率は倍増するとみられる。国家財政にとって年金などの社会保障費用は、きわめて大きな負担となっている。高齢化の進行は労働力不足を生み、そのためにも経験のある高齢者に働いてもらうという動きも進行している。すでに日本のように60歳代後半、時に70代初めまで働いている国もある。団塊の世代の大量退職問題も、憂慮されたほどの大問題とはならなかった。引退したいと思う年齢は、国民性、職業などでかなりの個人差がある。アメリカでも40歳台、50歳台で退職することを楽しみにしていた時期があった。しかし、今では60歳代初めへと移ってきた。

死ぬまで働くしかない時代?
 かつて多くの国で、第二の段階、「仕事の時代」を終えると、人々に残された年数はほとんどなかった。多くの人が死ぬまで働いていた。長寿化によってやっと与えられた黄金の「第三の段階」だが、その基盤は大きく揺れている。 待ちに待った引退の時代を楽しみたいという人々にとっては、年金支給年齢が引き上げられたり、定年年齢が引き上げられたりすれば、期待を裏切る展開となる。「第三段階」への移行の仕組みをいかに設計するかは、きわめて重要な意味を持つ。アメリカのように民間部門の強制定年制を年齢による差別として禁止した国もある。他方、段階的引退の仕組みに期待する国もある。デンマークのように年金支給年齢と平均寿命をインデックス化してしまった国もある。

 国民の平均寿命が長くなったとはいえ、個人の寿命は神のみぞ知る。定年という暦の上の年齢で強制的に労働力から排除する仕組みは、年齢による差別の視点を待つまでもなく、最善の選択ではありえない。自らの意志で人生を選択する自由度をどれだけ
回復、維持できるか。限りある人生の時間、いかに生きるか。根源的な課題が戻ってきた。



Referece
‘The end of retirement.’ The Economist June 27th 2009

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新たな連帯の可能性

2009年03月29日 | 労働の新次元

 

 

 かつてアメリカでは、就任式を終えて、ホワイトハウスに入った新大統領は、道を隔てたAFL-CIO(米国労働総同盟産別会議、米国最大の労働組合連合体)本部に挨拶に出向いたという。特に、民主党の大統領であった場合は、労働組合は大きな支持基盤でもあり、「ビッグ・レーバー」といわれた一大勢力であったから、大統領自ら足を運んだのも当然だった。  

 ところが、今はAFL-CIOの委員長の方から、ホワイトハウスへ出かけるらしい。現在のジョン・スウィニー委員長は、ほとんど毎週訪れているとのこと。ちなみに、ブッシュ大統領は、8年間の任期中にスウィニー氏を招いたのは、わずか一回だった。

 オバマ大統領は占拠活動中からも労働側に好意的(プロ・レーバー)であり、EFCA法案(後述)にも支持を表明している。労働長官には、労働組合ティムスターズのショップスチュワードの娘であるヒルダ・ソリスを任命している。

退潮傾向の労働組合 
 時代は大きく変わった。アメリカの労働組合組織率は、1980年の20%から2005年には13%まで低下してしまった。しかも、組合員の半数近くは公務員である。民間部門の組織率は8%程度にすぎない。労働者を代表しているとは、とてもいえない状況だ。近年では、2005年にティムスターズ、サービス従業員国際組合(SEIU)などがAFL-CIOから脱退するなど、組合運動の基盤は大きく揺らいでいる。 「ビッグ・レーバー」という表現はいつの間にか使われなくなった。 

 日本の推定組織率も、07年6月時点で、労働者の18.1%近くまで低下している。1970年では35.4%であった。傾向として低下しており、日米ともに、組合は労働者を代表しているとはいえない状況になっている。本来ならば、労働組合が最も働きを問われる時代のはずなのだが。 

 日本ではあまり報道されていないが、最近アメリカでは「従業員自由選択法」 The Employee Free Choice Act (EFCA) 法案(通称「カードチェック」法案)が、議会で審議に入っている。使用者の抵抗などもあって、遅々として組織化が進まない職場の状況を労働組合に有利な方向へ変えるよう支援する法案である。1935年制定以来のNational Labor Relations Act を修正し、従業員が組合を組織、加入することを支援することをめざしている。  

 現行の労働法では、組合が未組織の職場の組織化を図る場合、先ず、オルグの従業員は組合から白紙のカードをもらい、同僚の従業員の署名を集める。従業員の30%の署名をとりつけると、使用者に提示し、使用者は組織化について従業員の無記名投票を行うか決定する。しかし、実際には使用者側の干渉を防ぐため、組合側は従業員の50-60%が組織化に賛成を決めるまで使用者に開示しないことが多い。

 投票を行うことになれば、NLRBの監督下で選挙を行い、過半数を得た組合が排他的団体交渉権を獲得する。このプロセス、いくつかの映画でもとりあげられた。少し古いが、南部の繊維工場を組織化する状況をテーマとした映画『ノーマ・レイ』(1979年)などでご存じの方もあるかもしれない。主役の女性ノーマが、選挙に勝った時に、
UNIONと書かれたボードを高く掲げる光景が残像として残っている。しかし、これは組合がまだ組織力を発揮できた時代の映画だった。その後、企業の反組合的 union bashing な活動も強まり、組織率は低下を続けた。

「カードチェック」は起死回生の妙薬か 
 議会の審議過程でかなりの修正が行われるとみられるが、「カードチェック」法案の基本部分は次のようになっている。新法EFCAが成立すると、ある組合が従業員の過半数の署名をとりつければ、NLRBは当該組合を団体交渉のための排他的代表として認証する。しかし、もし30%の署名を得た組合が無記名投票を要請すれば、投票も行われる。EFCAは使用者でなく従業員に無記名投票するかの決定権を与える。この法案の発想の源は、カナダにあった。カナダでは一部の州を除き、交渉単位となる労働者の過半数の支持を得れば、選挙を実施することなく排他的交渉権を獲得する自動認証という仕組みを採用している。カダは労働組合の組織率が30%近くで、アメリカよりかなり高い。  

 賛否様々で、法案の帰趨は土壇場まで分からないといわれている。ケネス・アロー、ロバート・ソロー、ジョセフ・スティグリッツなどノーベル経済学賞受賞者を含む40人の経済学者が、労働者の交渉力の弱さが今回の経済危機を悪化させたとして、EFCAの支持表明を「ワシントン・ポスト」紙に出しているが、経済学者の間でも議論は分かれている。仮にEFCAが成立しても、組合活動が大きな復活の契機になる保証はなにもない。

 労働組合という組織自体が、現代の労働市場にそぐわないものになっているという指摘もかねてからある。組合がここまで衰退してきたのは、組織分野の高賃金が仕事の機会を失わせるという労働者の見方の反映だともいわれている。現代の多様化した仕事の実態が、組合という集団的契約を主軸とする方向と、もはや合わなくなったという主張もある。

新しい運動は生まれるか
 いずれにせよ、これまでの組合の延長線上では、組合の再生はありえないという見方に収斂しつつあるようだ。まったく新しい思想に基づく組合のイメージが必要とされている。従来からいくつかの試みがなされてきたが、たとえば社会起業家のサラ・ホロウィッツが組織したフリーランス・ユニオンが注目を集めている。独立した労働者の要望に応える形で、30万人を越える組織にまで拡大した。 仕事の性質から通常団体交渉はない。その代わりに、フリーランサーの仕事の条件作りに力を入れる。自ら利益無視の保険会社を設立し、安価な健康保険を供与し、政治的にも積極的に活動するという方向である。

 政治的面でのひとつの成功例は、ブルームベルグ・ニューヨーク市長にフリーランスに減税を認めさせたことだ。ホロウイッツ委員長は長期的には保険ではなく、貯蓄をベースとする新しい失業給付システムを抗争しているという。ひところ「団結」solidarityについて語ることを嫌う風潮があったが、この大不況の中で、共通の目的のために集まるという動きが強まっているらしい。退潮著しいAFL-CIOの中にも、Working America という草の根レベルの組合が活性化している。かつての「ビッグ・レーバー」のイメージは、もはやそこにはない。 しかし、かすかながら、新たな芽生えがありそうな気配もある。

必要な自立の力の養成
 さて、日本はどうだろうか。ようやく形の上では、政労使が一体となって雇用を創出するという動きにはなってきたが、具体化へのイメージは見えてこない。主として大企業、正規従業員が主体である企業別組合、そしてその上に立つ「連合」は、多くの点で限界が見えている。政策にも迫力が感じられない。労働者の数の上では少数派の組織が、大多数の未組織労働者の考えを代表することは本質的にできない。これは、日本を含めて各国の労働の歴史が証明している。正社員の組合が未組織分野を組織化しようと試みて、顕著な成功を収めた例は少ない。派遣労働者などの未組織労働者は、正社員組合の雇用安全弁に位置づけられてしまっているからだ。 

 今日の状況で、最も大事なことは、組織という支えがなにもない中小企業、非正規労働者などの声が、国の政策や自助・自立の道へ反映する仕組みを創りだすことではないか。労働者の大部分は未組織だ。セーフティ・ネットからこぼれ落ちやすく、改善への「発言」の道も限られている。

 社会政策上のセーフティ・ネットを充実させる必要はいうまでもないが、労働者が自らの力で考え、現状を改善、向上させる仕組みを生み出すことが欠かせない。下からの新たな連帯の構想が必要になっている。「フリーランス・ユニオン」などのように、従来の路線とは異なる新しい観点に立った草の根レベルからの自己努力はどうしても必要だ。さまざまなNPOも活動し始めた。このブログでも、アルゼンチンの「連帯経済」、「回復工場」について記したこともある。セーフティ・ネットをしっかり張り直すことに加えて
、当事者が自らしっかりと根を張って立ち上がる力を育まねばならないと思う。 春の到来、新しい動きが芽生えてほしい!




References
"In from the cold?" The Economist, March 14th 2009.

Albert O. Hirschman. Getting Ahead Collectively:Grassroots Experiences in Latin America. New York: Pergamon Press, 1984.
アルバート・O. ハーシュマン(矢野修一、宮田剛志、武井泉訳)『連帯経済の可能性―ラテンアメリカにおける草の根の経験』 法政大学出版局 2008 

 

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大学を再生させる就職活動へ

2008年12月03日 | 労働の新次元
 

  大学生の採用活動をめぐって、採用内定者の内定取り消し、就職活動(就活)の早期化(青田買い)、フリーターの増加など、いくつかの問題が議論されている。実はこれらの議論は10年越しのものだ。事態はまったく改善されていない。

 『朝日新聞』(2008年12月2日朝刊)「声」欄に、「卒業待っての採用できぬか」との投書が掲載されていた。「腰をすえて勉強し、一番学力もつく時にこんなことでよいのか」というご指摘である。改めて述べるまでもなく、大変真っ当なご意見だ。なぜ、こうした状況が改善されずに続いているのか。 

 これらの問題に多少関わった者として考えることは、日本の企業も大学も長期的視点がまったくないといわざるをえない。優れた人的資源を育てる以外に生きる道はないこの国にとって、大学の名に恥じない教育を行うことは、大学、学生、企業など関係者のいずれにとっても、将来のために不可欠なことだ。

 「大学教育に支障をきたさずに新卒採用を行う」目的で、産業界と大学側が協定を結んだのは、1992(平成4)年であった。これに先立って、いわゆる就職協定が1988(昭和63)年度から結ばれていた。有力企業による学生の「青田買い」や、採用したい学生を他社へ引き抜かれないよう、学生をさまざまに拘束するなどの行為が、就職市場の秩序を混乱させ、大学・企業ともに困り果てた結果であった。

 92年協定の柱となっていたのは、「企業説明会、会社訪問などは7月初旬以降解禁、具体的な採用選考は8月1日前後を目標とし、企業の自主決定とする。採用内定開始は10月1日」という内容だった。ところが、スタートしたその年から協定はほとんど守られなかった。

 通年採用やインターネット上での募集・採用なども広がり、協定は形骸化してしまった。日本経済は長期の停滞期に入り、企業も人材採用に厳しくなった。1997(平成9)年には、その年度の就職協定は締結を断念することになり、倫理憲章だけが残った。

 もともと、長い受験勉強の後に入学した大学では、学生間にしばらく受験疲れの’リハビリ’期間のような状況が生まれ、それがやっと落ち着いて学生生活の後半に入る頃には就職活動に巻き込まれてしまうという問題が指摘されてきた。とりわけ最終年次は、学生も浮き足立ってしまうことが多い。しかも、早く就職が決まった学生は、大学の授業に関心を失ってしまい、しばしば教育環境を損ねていた。大学が高等教育機関を標榜しながらも、卒業後に残るものはサークルと友人だけという悲しい状況すら生まれた。これらの問題は改善を見ることなく、今日まで変わらず続いている。 

 事態を改善するためになにをなすべきか。かつて、大学の機能を本来あるべき姿に復元させるためにも、少なくも選考、採用決定など採用活動の中心は、大学の正規の課程が修了した後に行われるよう、大学・企業など関係者が協議し、新しい合意を確立することが考え得る有力な選択肢のひとつとして提案された*。しかし、大学関係者の現実認識の不足もあって、十分議論がなされなかった。

 この提案の方向に沿うことで、大学という「教育の次元」と就職・雇用という「労働の次元」の間に一定のけじめをつけ、崩壊する大学教育にある程度の歯止めとすることができると考えられる。もちろん、惨憺たる状態にある日本の大学を建て直すには、多くのことがなされねばならない。

 しかし、少なくともこうした措置を導入することで、大学の正規の教育課程を外部市場の横暴な圧力から隔離し、大学が目指す教育を実行できるだけの時間を確保することができる。真に大学卒業者としての力量を備えた人材を採用できるという意味で、企業にとっても長期的に大きなメリットがあるはずだ。 

 人口激減に直面するこの国にとって、将来を背負う若い人材の教育には最大限の配慮が払われるべきだろう。この問題については、大学もさることながら、主導権を握っている企業側の反省と節度ある行動が最重要である。グローバルな経済危機で雇用需要が激減している現在、日本にとって、この問題を考える最後の機会かもしれない。

*
『学生の職業観の確立に向けて:就職をめぐる学生と大学と社会』日本私立大学連盟・就職部会就職問題研究分科会、1997年6月
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飛び散った「労働ビッグ・バン」

2007年07月06日 | 労働の新次元

  年金記録問題という大衝撃で、最低賃金法改正案など労働関連重要3法案の今国会成立はついに見込めなくなった。一時はメディアを含めて「労働国会」などと騒ぎ立てていたが、今や雲散霧消に近い。失業率などにようやく改善の兆しが見られ、セフティネットの補強の時としては最適な時期だけに、法案が成立せず先延ばしになったことは、きわめて残念だ。年金問題の行方と併せて、格差拡大がさらに増幅される恐れがあり、大変憂慮される。両者は、とりわけ社会の最も弱い層の厚生・労働条件に深くかかわっているからだ。

  なかでも最低賃金の大幅(?)引き上げがほとんど見込めなくなったことは、きわめて憂慮すべきことだ。それでなくとも、日本の最低賃金は、先進国中でも最低に近い水準である。

  この点に関連して
考えさせられることは、労働政策の立案・改革に全体を見通した構想が欠けていることだ。省益擁護を含めて、既存の制度にとらわれすぎたり、部分の問題に目を奪われて、政策が歪んでいる。これは、最低賃金制度に限らず、労働政策のさまざまな領域に見られる。たとえば、最近メディアをにぎわしている外国人研修・実習制度はそのひとつである。この問題では、外国人労働者受け入れの根本的部分について再検討の必要が問われているのであって、現行の研修・実習制度の綻びをどう繕うかという問題ではない。

  ここでは最低賃金制度を例に挙げよう。今回の議論で提起されている最低賃金の水準と生活保護の整合関係を論じることは重要なことではあるが、もっと大切なことは最低賃金の制度を国民に分かりやすく透明なものとし、その仕組みと存在意義を周知徹底する努力である。先進諸国の中で日本ほどいたずらに制度を複雑にし、その実効性を削いでいる国はないだろう。アメリカ、イギリスなどで、この制度に接してみて分かるのは、最低賃金制にかかわる情報が広く労使などの関係者に浸透していることである。原則、全国一律、時間賃率表示ということもあって、透明度が高い。制度内容が労使に広く浸透している。

  他方、このブログでも指摘したことだが、日本では各地域で自分の企業が所在する労働市場の最低賃金を正確に答えられない使用者はきわめて多い。筆者の経験でも、ある地域の使用者インタビューで、最低賃金を即座に答えられたのは、数十社の中でほとんどなかったことさえあった。アンケートという書面調査においてさえ、回答者の過半が正確に答えられないという状況になっている。パートタイム賃金を決める時にだけ、最低賃金率を確認して、それに合わせるという本末転倒した事態さえ横行している。
 
  労使の代表は一円刻みの折衝に骨折ったなどと、もっともらしくいうが、グローバル化がこれほど進んだ世界で、一円単位まで示した都道府県別の最低賃金決定の仕組みが、どれだけの意味があるだろうか。都道府県の区分は行政区分にすぎず、現実の労働市場の範囲とはなんの関係もない。実態とはかけ離れた制度の形骸化を如実に示している。グローバル化した世界で、「地域」労働市場が競争している相手は、どこなのかを十分考える必要がある。

  都道府県という行政区分別に、複雑な水準設定をすることが重要なのではない。地域に関わりなく、日本人として人間らしい文化的な生活を最低限可能にする水準の維持こそが、最低賃金設定の基本に置かれるべきであり、そのメッセージが国民に伝わらなければならない。

  こうした複雑で実効性に問題が多い制度の維持・運営に国民が支払っている行政コストの大きさも認識されていない。制度の透明性と実効性を回復するには、基本的に全国一律の制度とし、例外的な地域に限って上積みするという簡素で透明度が高い体系への整備を図るべきだろう。しかも、労使など関係者が記憶しやすい直裁な数値設定も、小さなことのようだが重要だ。

  現代のグローバルな状況からいえば、全国一律の最低賃金率を設定した上で、せいぜい道州区分程度でグループ化し、必要に応じて、地域プレミアム加算をすることで十分だろう。日本全国を貫く賃金のフロアーが、どれだけの水準であるかを国民に明瞭に示すことが第一義的に必要だ。これまでの内外の実証研究を見る限り、最低賃金の引き上げが雇用にいかなる影響を与えるかは、仮定や標本の設定次第でプラス・マイナス両面の結果が出ており、それも微妙な範囲に留まっている。格差拡大が進む日本の現状では、水準引き上げが雇用面でもプラスに働く可能性は高いと思われる。

  現行の公労使3者構成の委員会方式も多くの問題がある。最低賃金審議会の制度も見直されるべきだろう。最低賃金制度のあるべき思想に立ち戻り、現行制度の抜本的検討が必要である。先延ばしになってしまった法案改正を「災い転じて福となす」よう、制度の根源に立ち戻っての議論を望みたい。

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「労働」ブームの危うさ

2007年01月22日 | 労働の新次元

  作家の恩田陸さんが、『文芸春秋』(2007年1月)の「06年、一番面白かった本」の中で、「「負け犬」「少子化」「未婚」「人を見下す若者」「国家うんぬん」などなど、最近ベストセラーになったりしたものの根底にあるのは、実はすべて労働問題だったということに気付く」と記されている。「労働問題」の定義次第とはいえ、最近、「労働」「働くこと」にかかわる問題が、きわめて増加していることだけは確かである。この意味では、もうひとつのブームとなっている教育問題も、労働に関わっている。

  これは歓迎すべきことなのだろうか。労働問題が大きく取り上げられる時代は、あまり良い時代ではない。振り返ってみると、日本人の多くが、「1億総中流」という思いを、たとえ幻想に近くとも抱けた時代は、労働問題への関心は低下していた。もっとも、その「豊かさ」は、際立って物質的豊かさであったのだが。

  80年代から労働組合活動への参加も少なくなり、組織率も低下の一方だった。「労働」という文字が入ると、本も売れませんよと、出版社から言われたこともある。しかし、このひと時の見かけの豊かさへの「陶酔」(ユーフォリア)は、バブル崩壊とともにもろくも崩れ去った。

 人々が仕事や働き方に大きな意味を見出し、生活におけるその位置や役割を考えることは望ましいことだろう。しかし、最近の「労働」ブームはどう見てもそうではない。仕事に生きがいを見出せない、働き疲れ、格差の拡大、将来への不安など、マイナスのイメージがブームを支えている。

  浅薄な制度いじりが横行し、「ホワイトカラー・エクゼンプション」に象徴されるような、働く人自身が理解できない制度が拙速に移植されようとしたり、短期的視点で全体を見失った改革フィーバーが展開している。

  90年代のアメリカで労働関係の「法律の氾濫」が話題とされたことがあった。目前の変化に対応するために、次々と新たな法律が作られ、専門家でも実態がどうなっているかよく分からなくなるという現象である。「労働ビッグバン」という最近の風潮も、その危険性を多分に含んでいる。

  

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理念なき労働改革の挫折

2007年01月17日 | 労働の新次元

    「ホワイトカラー・エグゼンプション」(ホワイトカラー・労働時間規制除外)制度の通常国会への法案提出は、見送られることになった。労働分野の研究者の一人として、議論の渦の外から見ていて当然だと思う。「成果主義」という言葉が流行し始めて以来、言葉だけが踊り、実像の見えない議論が多くなった。

  「ホワイトカラー・エクゼンプション」は、確かに簡単に言ってしまえば、年収など一定条件を満たしたサラリーマンを残業手当ての適用から除外する制度ではある。しかし、英語名が使われているように、元来主としてアメリカというビジネス社会で、かなりの年月を経て熟成してきた制度である*。アメリカに特有な経営風土の中で形成されてきた働き方の仕組みであり、その部分だけを切り取ってきて移植しようとしても、うまく行くとはかぎらない。ひとつの制度がある風土に受け入れられて根付くには、かなりの時間とさまざまな条件が必要である。「日本版」はそれほど簡単には作れない。

  仕事の効率と報酬を結び付けたいという経営側の考えも理解できないわけではない。効率的に仕事をしている社員には相応に報いたいが、そうでない社員は残業代を抑制したいという意図は、この時代当然生まれる考えだ。

  それとともに、仕事も大事だが、家族などと過ごす生活も大事と思うようになってきた若い社員への対応のひとつという思いも、推進者のどこかにあったのかもしれない。(論点がずれているようだが、)残業代の出ない仕事などさっさと切り上げて、帰宅して家族と過ごしたらということだろうか。

  しかし、決定的に無理なところがあった。当のホワイトカラーの人々にとっても聞き慣れない制度を導入をした場合に、職場の風土を含めて暮らしや働き方のなにが変わるのかという説得力を持った説明がまったくできていない。自動車の部品が壊れたからといって、部品だけを取り替えれば動き出すという話ではない。

  「ホワイトカラー・エクゼンプション」に限ったことではない。「労働バン」とかいう軽薄な風潮に乗って、日本が世界にモデルとなりうるような「労働の未来」について納得できる構図を描く努力をすることなく、拙速に制度の改廃、雇用ルールづくりという次元での議論を進め、「魂なき技術論議」に終始したことが失敗の原因である。



* アメリカでは労働時間について直接の規制はないが、企業が従業員を週40時間を超えて働かせる場合、通常の5割増しの賃金支払い義務を負う。ただし、管理職などのホワイトカラーの場合は、適用が除外され、週40時間を超えて働いても割増賃金を支払う必要はない。

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理念なき労働市場改革

2007年01月04日 | 労働の新次元

  年末から新年にかけて例年のことだが、過ぎゆく年と来るべき年への回顧と展望の時間が生まれる。新聞、テレビなどのメディアもこの時期はかなり集中して、大型番組を流す。
 
  そのいくつかを見ていて、ブログではとても意を尽くせない問題だが、気になったことについてメモを書いてみたい。流行語ともなった「格差社会」にかかわる問題である。日本人と比較して、アメリカ人は格差をあまり気にしない国民であるといわれてきた。アメリカは、先進国の中で最も貧富の格差の大きい国である。しかし、格差の縮小が国民的政策課題となったことはあまりない。今は貧しくとも努力して幸運に恵まれれば、自分も成功者の仲間入りができるかもしれないという「アメリカン・ドリーム」が、まだ生きているのだろう。

取り残される人々
  かつてジョン・F・ケネディ大統領が、「上げ潮になれば、ボートは皆浮かぶ」といったことがある。景気が回復すれば、失業、賃金など多くの問題は解決するという含意である。そこには、まだ幸せな時代であったアメリカの夢が端的に示されている。しかし、1995年以降、アメリカでも「ワーキング・プア」の問題が提示されるようになった。2003年時点で730万人近くが「貧困ライン」以下の所得しかないワーキング・プアに該当するともいわれる(BLS)。税控除後の所得で上位層は恩恵を受けているが、中位以下の労働者層の賃金上昇はほとんどない。  

     日本の安倍内閣も経済成長さえ維持できれば、経済問題の多くが解決すると思っているようだ。しかし、すでに戦後最長の経済成長という政府の発表にもかかわらず、所得格差は縮小せず、長時間労働など雇用の内容にもさしたる改善がみられない。

  その中で「働き方の多様化に対応した新たな雇用ルール」を設定する動きが、新たな法律作りや改正という形をとって進行している。その中心的柱役割を担うのは、労働基準法の改正案と労働契約法案(仮称)づくりである。

目標を失った改革論議
  政府側は労働政策審議会などでの検討を通して、通常国会への法案提出を目指している。個別の問題の検討は、それなりに必要である。しかし、重要なことが欠落しているのではないか。今のように個別の案件をいくら積み重ねたところで、人間らしい労働の未来像が浮かび上がるわけではない。議論がスタートした段階では、「労働契約法」の構想のように時代の流れに対応しようとの問題提起もあったが、議論が枝葉の段階に入り混迷するにしたがって、著しく形骸化している。

  政府が戦後最長の景気と誇示している目前で、「格差社会」「ワーキング・プア」の問題が提起され、多くの国民が将来に不安を感じている。日本の「労働の未来図」として、いかなるイメージが描かれているのか。10年、20年、50年後の「仕事の世界」として、どんなシナリオが描けるのか。法案作成を急ぐあまり、政策の基礎となるべき理念・構想の提示がなされていない。「労働の未来」が国民に見えなくなった。「木を見て森を見ず」の弊に陥っている。「改革」の後にいかなる「仕事の世界」が待ち受けるのか、国民にはまったく見えていない。

  「労働時間にしばられない自由な働き方」が検討に際して、ひとつの目標になっている。使用者そして一部の労働者にとっても、「労働力の流動化」という言葉は、耳ざわりよく響くのかもしれない。しかし、実際は企業にとって雇用調整がしやすい労働力を増やすことが主眼になっている。ビジネスの繁閑に応じて、労働投入量の調節がより自由にできることが期待されている。しかし、「流動化」は光と影を伴っている。

衰亡へのスパイラル
  ひとつの例を挙げてみたい。たまたま目にしたTV番組が、岐阜県の繊維産業の実態を 映していた。1万人近い中国人研修生、実習生が月給6万円程度の安い賃金(正しくは手当)で働いている。このブログでも再三とりあげてきたが、研修生という名のチープレーバーが拡大している。こうした「偽装雇用」ともいうべき実態は今始まったことではない。かなり以前から放置されてきた。そして、年を追って事態は悪化してきた。

  安い賃金で働く中国人研修生が、同じ労働市場の日本人労働者の賃金を引き下げ、労働条件を劣化させ、雇用機会を奪っている。研修生にとっても、地元の労働者にとっても、自ら望んだことではない。グローバル化の大波に翻弄されている中小企業としても、他になすすべがない。

  ロボット化もできず、生産費の安い中国へも工場移転できない状況で、中国からの繊維製品に対抗するためには、中国人労働者を低賃金・雇用する以外にないという選択である。経営者を含めて誰も満足していないという恐るべき現実が展開している。このままでは、出口はなく破綻するというスパイラルが生まれている。

  100年後には日本の人口は半減するとも言われるが、それほどの長期を待たずとも、すでに危機的状況が各所に生まれている。人口増と女性の労働・子育て両立化が焦点だが、それだけでは到底人口減少が作り出す問題の解決にはならない。タブー化して十分議論が尽くされていないが、移民の受け入れも決して万能薬ではない。しかし、働き手のいなくなる日本は、あらゆる分野で外国との協力、共生の経験を積み重ねていかねばならない。問題を先送りせず、しっかり国民的議論をする必要がある。移民受け入れの問題点を国民が十分認識する必要がある。長期的に予想しうる諸条件、制約の下で、いかなるシナリオが描けるのか。壊れたジグソーパズルは離散したままである。

  市場主義原理での解決という言葉が空虚に響く。将来を見通した議論をすることなく、セフティ・ネットの充実もなされることなく、目先きの労働力の流動化を追求することがいかに危険か。グローバル化に対応できず、翻弄されている状況がさまざまな惨状を生んでいる。安易な言葉に押し流されず、現実を見詰め、将来図を描き直し、そこにいたるまでの道に転落を防ぐしっかりとした防護策を設定することが先決ではないか。さらに言うならば、世界のモデルとなる「人間本位の労働生活」構想を率先して掲げる誇りを持つべきではないか。それとはおよそ対極にある、次々と破綻して行く実態に絆創膏を貼り続けるようなことだけは避けてほしいと、新年の願いは例年になく重いものとなってしまった。



「ワーキングプアII:努力すれば抜け出られるのか」2006年12月10日、NHKTV



 

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外国人看護師・介護士とともに

2006年11月22日 | 労働の新次元

  今年は日本・フィリピン国交回復50年とのこと。来年から日本はフィリピンから看護師・介護福祉士を受け入れることで合意している。厚生労働省関係の看護師需給予測は、多少なりとも実態を知る者から見ると、予測の条件設定、作業内容についても大きな問題があり、今後需給ギャップが縮小の方向に進んで行くとはとても思えない。数字上、看護師の供給は増えているかもしれないが、実際の需要はそれ以上に増えている。

  看護師、介護士の人手不足は強まるばかり。看護師の潜在有資格者が多数いるから、その復帰を目指すと職業団体はいうが、説得力はない。
現在の労働状況で需給が改善されるまでに、職場を離れた看護師が仕事に復帰してくるとは予想しがたい。病院の労働条件は厳しく、離職率も高い。離職中の医療・看護技術の発展も早い。看護師、そして介護士の労働条件は年々厳しくなっており、むしろ、実態はさらに悪化の方向へと進む可能性が高い。看護師の労働条件の改善はいうまでもなく、夜勤体制、労働時間、給与水準など早急な見直しが必要である。旧態依然たる「白衣の天使」的イメージに期待することでは、問題はなにも解決しない。この職業分野が真に魅力的なものとならないかぎり、需要に見合って供給が増えることはない。需給が逼迫すれば、給与などの労働条件が改善されるとの考えはきわめて長期についてのみ当てはまり、実態の改善にはつながらない。

  そうした中で、フィリピン看護師・介護士 caregivers の受け入れが決まった。しかし、その背景は外交上、日比両国の面子を維持することが前面に出た政治的決着であり、看護師・介護士労働の実態を踏まえて、その中で外国人看護師・介護士をいかに位置づけるかという観点での検討はまったく行われていない。そのため、受け入れの条件を厳しくし、日本語、国家資格試験など、バーを高めるということに重点が置かれている。しかし、受け入れると決めたからには、そのあり方について、より広い視野からの位置づけ・対応が必要である。

  数は少ないが、日本で働いているフィリピン、ヴェトナムなどの看護師、介護士の献身的なサービスは、高く評価されている。今後の日本の医療・看護・介護の領域を、日本人だけで充足して行くことは、いまやほとんど不可能、非現実的となっている。そればかりではない。日本は今後あらゆる分野で外国人労働者の力を借り、お互いに協力して行かねば存立していくことができない。日常の生活の中で、外国人と助け合い、共存して行く経験を広く着実に蓄積して行く必要がある。すべて日本人だけで充足できるという認識は改めねばならない。


* 「日本で働くフィリピン人介護士」NHKニュース2006年11月21日

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最低賃金の役割:アメリカ中間選挙の焦点

2006年11月05日 | 労働の新次元

  アメリカの中間選挙も目前に迫ったが、最大争点のイラク問題を別にして、経済分野では移民問題とともに最低賃金率の引き上げも注目を集めている。とりわけ民主党は連邦最低賃金率の引き上げをかなり重要視している。

  下院民主党の有力議員ナンシー・ポロシは、もし民主党が中間選挙で勝利し、議会のコントロールができれば、彼女は連邦最低賃金を時間当たり$5.15から$7.25へと引き上げる法律を議会活動で公式発言できる100時間以内に実現させたいとしている。他方、州レベルでもオハイオとミズーリを含む6州が、連邦賃率に加算する部分を積み上げる投票を行うと決定している*

  民主党は最低賃金に力を入れることで投票にはずみをつけることができると考えているようだ。イギリス労働党が政権を獲得した時のように、政治的には意味がある戦略である。というのは、多くのアメリカ人は連邦最低賃金率の引き上げに賛成である。ある世論調査では回答者の85%が賛成と回答している。移民問題よりも対立点が少なく、進歩性をアッピールしやすい。

  最低賃金の引き上げには、経済的にも意味あるとする人たちが多い。The Policy Institute (EPI) は、どちらかというと左よりの調査機関だが、5人のノーベル経済学者を含む650人以上の経済学者が賃率引き上げを支持するアッピールに署名した。連邦最低賃金は1997年に引き上げられたのが最後だが、その後実質価値は大きく低下してきた。今は1951年の水準以下である。

  最低賃金という制度は、ともすれば賃金率を上げると、雇用をかなり減少させるのではないかという印象が強いのだが、導入している国の実態を見る限り、その懸念は少ない。それだけに、セフティネットの機能が顕著に弱化している今日、この制度を強化する必要がある。なによりも財政支出を伴わないことが大きな利点となる。

  最低賃金率のある程度の引き上げは、雇用に「少し、あるいはほとんど影響を与えない」が、貧困と戦うには有効であると考える経済学者が多い。しかし、経済学者の間でも必ずしも意見は一致していない。

  初級レベルの経済理論で明らかだが、最低賃金を引き上げると、使用者は雇用を手控える。これが従来から合意があった見方であった。しかし、理論を具体化してゆくにつれて、さまざまな問題が生まれてくる。1990年代には一連の実証研究が行われ、ニュージャージーとペンシルヴァニア2州のファースト・フード店の著名な分析で有名なカードとクルーガー David Card (Berkley) and Alan Kluger (Princeton) は、この合意に挑戦的な結果を示した。言いかえると、ファーストフード店の雇用は、最低賃金引き上げの後、なかば常識となっていた想定とは逆に、現実には増加したとの結果を示した。

  他方、ニューマークとワッシャー David Newmark (Califorunia at Irvine ) and William Wascher (Federal Reserve) は、これとは逆の発見を示した。というわけで、実証研究の結果はどちらが正しいともいえない状況にある。これは、「他の条件が変化しないとすれば」という難しい理論的前提、標本の選び方、理論モデルと現実との関係など、多くの難しい問題が含まれているためだが、「常識的な判断」に従えば、よほど大きな引き上げをしないかぎり、最低賃金の現状程度の引き上げでは、雇用にはほとんど影響しないとみるのが妥当といえよう。

  もう少し経済理論に即していえば、今日の経済学者の合意は、もし影響があるとすれば最低賃金を上げれば、最悪の場合でも少し雇用を減少させる程度であるという範囲に大方収まっている。

  なお、ローレンス・カッツ Lawrence Katz (Harvard) は、上記のEPIのアッピールに署名している一人だが、「ほとんどの合理的に行われた推定では、最低賃金率の引き上げは、ティーンエイジャーについては雇用に小さなマイナス効果がある」としている。この点はイギリスの最低賃金制度導入時に、ひとつの例外措置が講じられた。その他の問題についても、アカデミックな次元では色々と論争はあるが、机上の空論に近く、あまり生産的なものとは思えない。 

  ただ、ほとんどの経済学者が同意することは最低賃金が高くなっても貧困を救済することにはあまり貢献しないということである。

  これにも色々と理由はあるが、主たる理由は最低賃金レベルで働く労働者の多くは真に「貧困者」ではないことである。そして、労働力のわずか5%(約660万人)が最低賃金上昇で直接影響を受けるにすぎない。そして、そのうちの30%はティーンエイジャーであり、かれらの多くは貧しい家庭の成員ではない。

  最低賃金引き上げは貧困者を増やすという計測結果を示した経済学者もいる。この点についても議論は分かれており、要するに貧困減少にはあまり効果がないということである。こうした最低賃金にあまり期待は出来ないが、財政支出を伴わないのだから、セフティ・ネットの一つとして最低賃金率を引き上げよという言い分は十分通りやすい。そして、切れ切れになりそうなセフティ・ネット補修のためにも必要である。

  最低賃金より貧困減少に有効であると考えられる手段は、 いわゆる「マイナスの所得税」earned-income tax credit (EITC) であり、アメリカでは1970年代に導入され、これまで4回、拡張されてきた。

  現在は給付は子供のある家族に焦点が当てられている。単身者はETTCからは得るところが少ない。経済学者の中には最低賃金の上昇とEITCの充実の双方を主張している。しかし、最低賃金と違ってEITCの大きな拡充は納税者の税金と関連するので政治的に簡単ではない。そのため、他の経済学者は次善の策として最低賃金を支持するという筋書きである。

    それにしても、日本では使用者もほとんど答えられないほど複雑化、形骸化
している制度をいつまで続けるつもりなのだろうか。



* 中間選挙に際して、ネバダなど6州は最低賃金の引き上げの可否を問う住民投票を示威し、全州で可決。これらの州では年明け移行、現行比で20-30%前後,最低賃率が引き上げられる。民主党は、今回の圧勝を背景に連邦最低賃金の引き上げを目指す。

Reference
“ A blunt instrument” The Economist 28th 2006

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あなたは最低賃金額を知っていますか

2006年10月28日 | 労働の新次元

  混迷して結論のでない格差論争の中で、セフティ・ネットの充実がさまざまに議論されている。ぼろぼろになってしまったセフティ・ネットをどう張り替えるのか。その中で、検討が不足していることのひとつは、最低賃金制度の抜本的改革である。

  このブログ記事でも取り上げたことがあるが、日本では制度の形骸化がはなはだしい。1970年代くらいまでは、最低賃金制度は労使の大きな関心事であった。しかし、今では自分の地域の最低賃金額 (ところで、皆さんはご存じですか)を正確に答えられる経営者も少なくなっている。フィールド調査をしてみると、その存在感の無さに愕然とすることもある。

  最低賃金制度に関する国際比較研究の示すことによれば、「妥当な水準に設定されれば、最低賃金は雇用に顕著なマイナスの影響を与えない」。ただし、若年者を例外的として低い賃率設定をすることは、かなりの国で行われている。彼らの熟練度、労働市場での経験などを考慮すると、その方が望ましいかもしれないという考えである。最近、注目を集めているイギリスでの実態について、これまで見聞したことを記してみよう。

イギリスでは存在感大きい
 形骸化が進んだ日本と比較すると、イギリスやアメリカでは最低賃金の存在感はかなりある。昨年、今年の短いイギリス滞在中に行きつけの書店やスーパーマーケットの店員などに聞いてみると、低水準なことに文句を言う人は多かったが、ほとんど皆知っていた。最低賃金の存在感はかなりある。イギリスでは2006年10月1日から時間当たり5.35ポンド(10.08ドル)へ引き上げられた。

  思い起こすと、ブレア労働党首がデビューした1997年頃は颯爽としていた。それまでは筋骨たくましく、いかにも労働者の代表といった感じの党首や議員が多かったからである。若さにあふれた
オックスフォード出の弁護士という経歴は注目を集めた。そして労働党の変容には驚かされた。それにしても、今のブレア首相はかなり疲れた感じである。

  それはともかく、ブレア労働党政権成立前から、政策の中で大きな柱として打ち出されていたのが全国一律最低賃金制度の導入であった。

全国一律最低賃金制度
  そして、1999年の政権成立とともに、全国一律の最低賃金が導入された。その後ほぼ7年が経過したが、最低賃金が原因で仕事の機会が失われたとは考えられない。イギリスの失業率はEUの中では低位である。

  その背景には、最低賃金委員会 Low Pay Commission の見識とその意向を十分斟酌した政府の賢明な選択があった*。経緯をみると、1999年4月の最初の導入時、22歳以上の労働者について最低賃金は時間あたり3.60ポンドというかなり低い水準に設定された。そして8ヶ月後に3.70ポンドへ少し引き上げられた。この水準は全労働者の平均時間給の36%にすぎなかった。さらに、18-21歳までの労働者については、1999年で3ポンド、2000年10月の時点でも3.20ポンドという低い水準であった。   

  当然、最初はかなり少ない数の労働者しかカバーされなかった。委員会は200万人くらいの労働者の賃金を引き上げると考えたようだが、実際には100万人くらいに影響しただけだった。当然、最低賃金が高すぎて、雇用が減少することもなかった。

    しかし、労働党政府はその後はかなり冒険的になった。今回の最低賃率引き上げは、昨年比で労働者平均賃金の4.4%を上回る6%であった。1999年以来7年間に、最低賃金は49%上昇した。他方平均賃金は32%の上昇だった。当然、平均時間給でみて41%に当たる労働者に影響を及ぼしている。

そろそろ転換期か
    この段階までくると、委員会も最低賃金が全国平均賃金を上回る時期は終わったとしている。そして、雇用に影響を与えるほどの水準に近づいた考えているようだ。経営者側団体は今回の引き上げで対応が厳しくなったと不満を表明した。

    OECDの研究は「ほとんどすべての国において、最低賃金は賃金格差の圧縮をもたらした」と見ている。妥当に設定された最低賃金は雇用にマイナスの影響をもたらすことなく社会政策として寄与したと評価している。

    日本の制度が形骸化している理由はいくつかあるが、最大の原因は政労使などの関係者が大局観を失い、制度を複雑化させてしまったことにある。戦後しばらくはともかく、経営者が日本と中国の人件費を比較して立地を選択する時代に、カリフォルニア州に収まってしまう日本を都道府県別に区分して最低賃金率を決める意味はほとんどない。そこに費やされる行政コスト、結果として効果の正確な判定がしがたい、実態と遊離した統計など、マイナス面はきわめて大きい。

  最低賃金の水準、影響率の議論以前に、制度の抜本的改革、簡素化を図り、国民にとって分かりやすい制度とすることが急務である。その点、イギリスの最低賃金制度導入のプロセスは、学ぶべき点が多かった。
  



*イギリスでは1997年7月最低賃金委員会 Low Pay Commissionが設置された。委員会は1998年5月に報告書提出し、1999年4月から時間賃率3.60ポンドを推薦した。そして、18-20歳については、3.20ポンドの初期段階賃率を設定した。新しい使用者の下で新たな仕事に就き、必要な訓練を受けている21歳以上の労働者は、最大限6ヶ月を限り、この初期賃率が適用されることを推薦した。ブレア政権は原則としてすべての勧告を受け入れた。


Reference
”Danger zone." The Economist 7th-13th 2006.

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政治的武器となる最低賃金制

2006年08月08日 | 労働の新次元

表:アメリカにおける連邦最低賃金率にプレミアム加算をした州の一覧 


    最近いくつかの国で最低賃金の役割が見直されている。アメリカでは8月に入り、約9年ぶりに連邦最低賃金率を引き上げる動きが現れた。下院で連邦最低賃金率の引き上げと、金持ち優遇と批判される相続税軽減を抱き合わせた法案が可決された。

政治的妥協の産物
  この背景には、中間選挙で低所得者の支持を強めたい民主党と、富裕層対策に余念がないといわれる共和党の思惑が一致したことがある。「動機が不純」との批判もあり、上院の可決を経て成立するかは微妙だ。しかし、今回このような動きが急速に浮上した背景については注目すべき問題がある。

  8月4日の記事に記したように、アメリカでは景気拡大の恩恵が企業と富裕層に集中し、中産・低所得層の実質可処分所得が伸び悩んでいるという問題が指摘されてきた。

  企業・富裕層の間では相続税が高すぎ、努力が報われないという不満がある。他方、中産・低所得層の状態は、改善の兆しが見えず、中流階級の凋落、ワーキングプアの増加などが問題にされてきた。

  こうした共和党、民主党の選挙基盤のそれぞれに対応する目的で、こうした政治的色彩の濃い抱き合わせの法案が下院へ上程された。

民主党の武器:最低賃金引き上げ
  特に最低賃金引き上げは、中間選挙を前に民主党が長らく考えていた対応である。連邦最低賃率は97年以降改正されていないことから、民主党は好調な企業や富裕層と比較して、中層・下層は恵まれていないとの批判が続出していた。そのため、この中層・下層の集票を期待する民主党にとっては、絶好の政策手段とみられてきた。もちろん、共和党にとっても最低賃金引き上げはある程度イメージアップの効果はあるが、同党は伝統的に政府介入を嫌い、最低賃金引き上げには阻止的であった。上院では98年以来、11回引き上げを拒んできた。

  アメリカでは連邦最低賃金率に各州が状況に応じて上乗せしており、現在では18州がプレミアムをつけている。高過ぎる最低賃金は若年層の低熟練労働者の雇用を減らす可能性が高いといわれているが、これまでの実証研究はさまざまな問題を含み、評価はかなり難しい。

  今回の法案がもし上院も通過すれば、現在5.15ドルの時間当たりの連邦最低賃金を今後3年間で2.10ドル引き上げ、09年6月までには7.25ドルとする。

形骸化著しい日本の最低賃金制  
  最低賃金制度を持たないドイツ*でも導入の可能性について議論されているが、日本では最低賃金制度の存在感がきわめて希薄になってしまっている。戦後、しばらく大きな政治的論争の焦点であったこともある制度だが、今日では自分の事業所のある地域の最低賃金額を答えられない事業主も多く**、労働者の関心も著しく弱まってしまった。制度の実効性が疑わしい状態といえる。

  日本の最低賃金制は、大局観を失った関係者が制度を必要以上に複雑にしてしまい、透明度も大幅に失われた。財政支出を伴わないで労働条件を改善する効果が期待されるこの制度の意義を見直し、抜本的な変革がなされるべきだろう。イギリスのブレア政権成立に際して、全国最低賃金制度を大きな政治的スローガンにしたように、日本の場合も形骸化した制度を白紙に戻して再設計を行う構想も必要ではないか。



*ちなみに、ドイツは建設産業など一部の例外を除き、法定最低賃金制度を持たない国である。労働協約の一般拘束力があるためである。しかし、今年に入って最低賃金制度導入をめぐる議論が活発化している。EU加盟国25カ国中19カ国は最低賃金制度を導入している。

**ある調査では、正しい地域別最低賃金額を回答しえた事業所は、全回答事業所のわずか24%に過ぎなかった(労働政策研究・研修機構「労働政策研究報告書 日本における最低賃金の経済分析」2005)。

# 7月26日、アメリカ、シカゴ市議会は、大型小売店に従業員の時給を10ドル以上とすることを義務付ける条例を全米で初めて可決した。今回の条例は低賃金に批判が集まっている小売業最大手ウオルマート・ストアーズの出店をけん制する意味も強く、議論を呼んでいる。シカゴがあるイリノイ州の州法は、今回の連邦最低賃率引き上げ以前の段階で、6ドル50セント。この条例はおそらく違憲と推定される。

Reference
"November's $5.15 question." The Economist July 1st 2006.

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パートタイム労働者の国、日本

2006年06月28日 | 労働の新次元


  さまざまな格差論がジャーナリズムなど論壇をにぎわしている。政府は「多様な可能性に挑める社会」としているが、すでに拡大してしまった格差を正当化するような感じがする。首相は、個人の自由競争の結果なら、格差が出ることは悪いとは思わないと述べているが、その前提が危うい。再チャレンジ政策を提唱し、格差は拡大していないとの政府答弁の裏側は、拡大してしまった格差を暗に是認しているような印象である。

  いつの間にか、日本は世界有数のパートタイム労働者の国になっている。短時間雇用者を「平均週就業時間が35時間未満の雇用者」と定義すると、2005年で実に1,266万人、雇用者中に占める短時間雇用者の比率は24.0%になっている。1970年の時点では6.7%であった(総務省統計局「労働力調査報告」)

  OECD(経済協力開発機構)の国際比較統計によると、上記の数値とわずかな差異はあるが、日本はいまや先進諸国の中では際だってパートタイム比率の高い国である。そして、OECD事務局は、国際比較でみると、日本はもはや格差の小さな平等度の高い国ではないと述べている。

    パートタイム比率(雇用者全体に占めるパートタイマーの割合)をみると、オランダ、オーストラリアに次いで世界で3番目の高さである。イギリスやアメリカを上回っている。そして、パートタイマーに占める女性の比率も67.7%と高い。正社員とパートタイマーの平均賃金には大きな差があり、その差も拡大している。

  OECD事務局は背景にある、1)非正規雇用の増加、2)正規雇用への保護が厚すぎることを指摘している。日本政府代表は同年代の格差は高齢者層ほど大きくなる傾向を強調、「格差拡大の主因は高齢化」と反論しているようだ。非正規雇用が増えたのは、リストラの結果でこのまま景気が上向けば正規雇用が再び増える可能性もあると指摘。その上で「非正規雇用者への保護を手厚くすることが格差縮小につながる」と主張したようだが、政策提示は後手にまわり、いまや説得力はない。

  格差の評価は、さまざまな要因を考慮しなければならないことは分かるが、統計だけで判定ができるものでもない。国民の将来に対する漠たる不安感、そして急速に増加している社会のマイナスの諸現象(若者の無力感・アパシー増加、要介護者の生活窮乏など)の「体感」も、体温と同様に日本の健全度を判定するに際し、重視すべき判断基準と考えるべきだろう。

  OECDの日本評価では、外国人労働者の受け入れ促進を促す意見、需要急増の「介護」を就労資格に加えるべきだとの意見が出たと伝えられる。外国人労働者を受け入れて問題が解消するわけではない。「介護」についても同様である。しかし、このブログでもしばしば取り上げているように、根本に立ち返り、いかなる選択肢が残されているか、目先の利害に引きずられることなく、将来のあり方を見据えた国民的検討が必要なテーマである。

Reference
「OECD格差問題クローズアップ」『朝日新聞』 2006年6月27日
'Part-time work', The Economist June 24th 2006.

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