時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

Places in the heart; 世の中の憎しみ・争いを救うものは?

2024年10月16日 | 回想のアメリカ



Places in the heart 
映画プレイス・イン・ザ・ハート
1984年公開 アメリカ
NHK BSP4K  2024年10月15日

アメリカ大統領選も目前に迫った。民主党ハリス候補、共和党トランプ候補のいずれが勝利しても、アメリカの分断、分裂は免れないとまで言われる難局が待ち受けている。その行方は日本にとっても重大な意味を持っている。

アメリカについては、筆者はアメリカ研究を志した頃から、南部が分からなければアメリカは分からないということを指導教授からも教えられてきた。日本におけるアメリカに関する論評はともすれば、この点を軽視してきた。南部の歴史、政治、経済、文化は、北部とは明らかに、しかも複雑に異なっている。

Places in the heart
たまたま、以前に見た映画だが、懐かしさに惹かれ、TVを通して再び見る機会があった。南部の空気を感じるには、極めて良い映画だと思う。

映画では、やや詰め込み過ぎと思うほどの出来事が語られる。それらを外し、骨格だけを記すと、映画は次のようなストーリーを辿る:

アメリカ南部テキサス州の小さな町ワクサハチーで、保安官であった夫ロイス・スポルディングが酔っ払いの黒人ワイリーを補導しようとしたが、誤って殺されてしまった。突然の悲劇に遭った白人の妻エドナが、二人の子供から成る家族を守ってひたむきに闘う姿を描く。ちなみに、ワイリーは白人の男たちからリンチを受け、殺害され、スポルディングの家の前まで車で引きずられた。こうしたことは、1980年代においても稀なことではなかった。1960年代、南部へ綿業労働の調査に赴いた筆者も、似たような話を何度か耳にした覚えがある。

それまで全て、夫任せだった妻エドナがこの出来事で、周囲の人々の協力を得ながら必死に頑張り生きる姿が描かれている。彼女は自宅から銀食器を盗んで捕まった流れ者の黒人モーゼスの罪を許し、彼の忠告もあえて受け入れ、自分の知らない綿作で生きようとする。

つぶさに写し出された綿花摘み取りの実態
ちなみに、この映画の綿花摘み取り作業の光景は圧巻である。ブログにも以前に記したように、アメリカ・ニューイングランドに集積していた木綿工業が、南部へと移転した要因のひとつが、原綿集産地であることであった。映画では朝から夜まで劣悪な労働条件で、手で綿花を摘み取り、働く人々の姿が細部にわたり、見事に映し出されている。現在は、機械化しているが、この時代の綿花栽培の実態が良く分かる。

モーゼスは罪を見逃してもらったことに感謝し、エドナを助け、綿業で成功を収めたが、そのことを快く思わない白人至上主義団体KKK(クー・クルックス・クラン)は、モーゼスを襲い、袋叩きにする。モーゼスは被害がエドナ一家にも及ぶことを考え、エドナに別れを告げる。エドナはモーゼスが彼女を助け、綿業で成功を収めたことを肌の色とは関係ないとし、彼の功績と評価しながら、彼を見送った。

そして、終幕、ある晴れた日、町の教会ではミサがとり行われていた。そこには、恩讐を超えて残った懐かしい人々の顔があった。KKKのメンバーまでもが参加していた。日常生活においては、黒人に対して厳しい差別、虐待を行う彼らも、信仰心においては普通の人々と言えるのかもしれない。

映画が取り上げた人間の犯した罪状は、竜巻などの気象変化、不倫などの人間の倫理に背く行為、さまざまな暴力など、数多い。

神父は新約聖書からの引用とともに、「愛は忍耐強く、情け深い。愛は決して滅びない。」と説教する。

全編を貫くのは、深い「赦しの心」といえるだろう。人間の犯したあらゆる罪や差別、人道に背く行為も「赦しの心」があれば、救いの道が開けるはずだと訴えているようだ。

タイトルの「Places in the heart」と、単数の ”a place”ではなく、複数形の”places”が使われているのも、心のあちこちにそうした場があるのだと暗示しているようだ。

モノクロ時代の映画でありながら、今日見ても心の奥に深く響く佳作である。人間が失いつつあるものを、改めて考えさせる。

Note
79年に『クレイマー、クレイマー』で高い評価を得たロバート・ベントンが描く。
84年度の57回アカデミー賞において、ロバート・ベントンが脚本賞、
サリー・フィールドが『ノーマ・レイ』に続いて、2回目の主演女優賞を受賞している。

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『虎に翼』の足下で(2):事実とフィクションの間

2024年10月12日 | 午後のティールーム



NHK連続テレビドラマ『虎に翼』が終了した。かなり評判は良かったようだ。結局3分の1くらいは見たかもしれない。前回記したように、筆者は新聞連載小説、TVの朝ドラは、これまで読んだり、見たりすることはなかった。

今回は時間的な余裕はあった。しかし、積極的に見ようとは思っていなかった。あまり気乗りがしない原因は他にもあった。筆者の体験あるいは見聞した現実とドラマの間には、かなりの間隙があった。いうまでもなく、フィクション(虚構)であるドラマである以上、事実の取捨選択、歪曲などは当然起こりうる。

今回は別の事情が加わった。偶々、筆者が、ドラマに登場した人物と同時代のかなりの部分を共に生きてきたということに加えて、筆者の近くにいた人たちが、実際には登場人物を支える裏方のような役割を果たしていたからだった。たとえば、戦後、しばらく筆者の義父も、最高裁判所設立当時、事務総局の責任者として日夜働いていた。

特に気にかかったのは主人公たちが演技する舞台だ。ドラマだけに余計な部分は捨象され、背景も美しく整然としている。しかし、ブログ筆者が理解した限り、戦後しばらくの間、最高裁判所を取り巻く環境は、ドラマより遥かに混沌とした状態だったようだ。敗戦によって、旧体制は崩壊し、新たに最高裁判所を頂点とする裁判制度自体が、戦前とは大きく異なる価値観に基づき構想されることを求められ、根本的な再検討を迫られていた。

ドラマの影響力
ドラマと現実は当然異なって当然なのだが、長い年月が経過すると、影響力あるドラマが生み出したイメージが歴史的現実を席巻してしまう。今回は珍しく関連出版物も多かったが、とりわけ気になったのは、それらの多くが、「団塊の世代」(1947-49年生まれ)よりも若い世代の手になる調査や叙述であり、筆者には臨場感が薄いものが目についた。利用された史料も出所が同じものが目立った。

戦後、さまざまな折に集まった法曹分野の人たちの間で、当時の思い出話などに花が咲いたことがあった。筆者は法曹界には関係ない職業に就いていたが、傍らで聞いていて共感したことが多かった。

ドラマの一場面から:
『虎に翼』、第10週の場面。終戦後、民法改正に携わることになった寅子(演:伊藤沙莉)は、思い出の公園で花岡悟(演:岩田剛典)と再会し、並んで弁当を食べる。ところが、食糧管理法に関する事案を担当している花岡は、法を犯して闇市で米を得ることを拒否、あまりに少なく質素な弁当を持参していた。

全国の裁判所の事務室に米つき瓶、蒸しパン製造器などが並んでいたのは珍しくなかったようだ。前者は玄米、粟、稗などの雑穀を一升瓶に入れ、棒で突いて簡易の脱穀器のように使っていた。手製の電熱の蒸しパン製造器なども、多くの家庭にあったのではないか。筆者の家でも使っていたのを記憶している。鶏などを飼って卵を得ていた家庭も珍しくなかった。筆者の家でも一時期、2羽の鶏を飼っていたことを思い出した。

こうした話の中で、裁判所に出入りしていた魚屋のSさんの話を思い出した。裁判所を訪れる客人との会食の際の素材などの供給をしていたようだ。当時は鰊、ホッケ、鱈などは比較的入手できたが、鮮度がすぐに落ちてしまう。他方、主食の米が全くないという、今の若い世代の人たちには想像し難い状況もあったようだ。

飽食の時代に住む今日の我々には想像できない、栄養失調・餓死と隣り合わせだった戦後日本の暮らしがそこにあった。深刻な食糧不足に陥った日本は、「生きるために法律を犯して闇米を食べるか、法律に従って餓死するか」という極限状態にあった。

東京区裁判所の判事だった山口良忠(1913–1947年)といった「法の番人」である裁判官も、「自分たちが法を犯して闇米に手を出すわけにはいかない」と、当時の食糧管理法という法律に沿って配給される食糧のみを口にし、1947(昭和22年)10月11日に栄養失調で餓死するという事件が起きている。当時最高裁判所事務局にいた筆者の義父が記していた日記にも、この出来事の新聞記事が書き残されていた。

今日に残る関連記事の多さを見ても、いかにこの出来事が衝撃的であったかが分かる。三淵忠彦最高裁長官のもとに過労で栄養不足の裁判官がいたら差し上げてくださいと、自宅の鶏が産んだ卵を届けた人もあったという。彼女は長官室に招き入れられている。その後、長官はこの事件を重く見て、マッカーサー司令官に裁判官の報酬を改善する制度の進言をしている。

この例に見られるような苛酷な状況にあって、最高裁判所を頂点とする新たな裁判所制度の構想を具体化するために、裁判所内外で多くの人々が努力を続けていた。英語の勉強会は、さまざまに行われていたようだ。戦後、義父の遺品整理をした折、英語の法律関係の書籍、当時の著名な思想家たち、とりわけイギリスの哲学者バートランド・ラッセル(1872-1970)の作品がかなり残っていたことが記憶に残っている。婦人解放運動に熱中し、ケンブリッジ大学から解任され、後にアメリカへ移住したこの偉大な哲学者の思想も、戦後の家庭裁判所構想などに何らかの影響を与えたのだろうか。


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