断捨離の作業?をしていると、懐かしいもにに出会う。
今は廃刊となって久しいLIFE(September 1990)の表紙である。
HOW WE CAME TO AMERICA と題されたエリス島入国管理事務所改装の記念号。
アメリカの移民史を飾る出色の一枚だ。
ある学術研究雑誌の依頼に応じて、「見える国境・見えない国境」(『日本労働研究雑誌』(2004年10月)(本文はクリック表示)という短い巻頭論説を寄稿したことがあった。テーマは戦後の日本の移民(外国人労働者)政策がもたらした結果のスナップショットであった。字数に制限があったこと、 読者の少ない学術誌ということもあって論旨が広く伝わったとは思えないが、その後10年ほどの間に、このタイトルがさまざまなところで使われるようになってきた。論説自体も、いくつかの大学で入試問題にも採用されていた。今回は説明不足であった点などを、少し補っておきたい。
薄れる記憶
かつて日本で外国人労働者問題がクローズアップされた1980年代、東京の上野公園や代々木公園などに、休日、イラン人、バングラデッシュ人、パキスタン人など中東系外国人が集まるようになり、メディアの話題となったことがあった。それまで日本人があまりよく知らない国々の労働者、しかも男性が多数集まっている光景は衝撃的だった。実際には彼らは休日などに集まって、言葉の通じる同国人たちと、仕事の機会の有無など、情報交換などをしていた。自国の食べ物、日用品などを売る露店もあった。外国人が多かった大泉町などでは駅前の公衆電話の前に長い列ができていた。その後40年近い年月が経過したが、IT時代の今では、こうした事実があったことを知る人も少なくなった。
他方、時間の経過とともに、日本で働く外国人労働者の数は年々増加してきた。今では工場や店舗で働く外国人労働者の姿はあまり違和感なく、多くの日本人の目に映っているようだ。人口の大減少時代を迎えて、さすがに国内労働力では対応しきれないことが実感されるようになったのだろう。メディアによると、安倍首相などから、「移民政策」はとらないが「外国人労働者」の受け入れ拡大に向けた対策を強化するようにとの関係閣僚への指示も出ているようだ。2020年に予定される東京オリンピックに向けて、増大する建設需要に対応するため、15年度から緊急受け入れ措置が始まり、2020年度までに延べ7万人程度の受け入れが想定された。しかし、16年度2月までの受け入れ実績はわすか293人にとどまっているとされる(『日本経済新聞』2016年3月12日)。
注意すべき用語の含意
移民問題に関わる用語はかなり多い上に、その意味も多義的であって、少し説明が必要かもしれない。特に日本では、「移民」migrant, immigrant という用語は、戦前から戦後にかけて多くの日本人が移民船でブラジルなどへ移り住んだように、受け入れ先の国へ定住するとの含意が残っている。
しかし、今日では、受け入れ国における定住をかならずしも前提としない。たとえば、イギリスのBBCなどは、migrantを入国審査で難民として認定されなかった者を除くすべての外国人入国者(季節労働者、期間の定めのある労働者などを含む)とする定義を使うこともある。これに対して、日本では「移民」という用語がしばしば「定住」の権利とむすびつけられて考えられている。その場合、「外国人労働者」は、定住を認められていないと暗黙裏に考えられているようだ。しかし、国際的には「移民」は、定住、非定住に関係せず、「外国人労働者」も含まれている。当初は1~2年で帰国する予定であった労働者が、結果として定住にいたるということは、この世界ではよく起こりうることだ。また、移民労働者の多くは数年の海外での労働生活の後、母国へ戻ることをと予定している。
「難民」refugees, 「庇護申請者」asylum seekers は、「迫害、戦争その他生命の危険をもたらしかねない要因のため、母国を離れ国際的な保護を求める人々」と定義されている。庇護申請者は難民の認定申請をする前の段階と考えられているが、現実には区分が難しい。「移民」、「難民」の区分は現実的な対応においては、政治的判断の必要もう加わり、困難なことがある*。たとえば、このたびのEUにおける難民問題にしても、真に難民に該当するか否かの実務上の判定は、かなり困難をきわめる。意図的に国籍などを証明する証明書を携行していない者もいる。本国照会などの事務手続きなどを考慮すると、時には半年以上も時間を要し、その間庇護申請者は収容施設などで、不安な日々を過ごすことになる。
✳「移民」と「難民」あるいは「庇護申請者」の間には、定義上も明らかな違いがある。やや煩瑣のため詳細は別の機会にしたい。
逆行する現実
さて、戦後日本における移民受け入れ政策の展開を長らく見てきたが、1980年代とあまり変わらない議論が今日でも依然として横行していることに気づかされることがある。最近のEUにおける難民・移民問題の検討の際に論じたが、難民・移民の入国阻止のため、有刺鉄線などの国境障壁を急遽設置した国があった。ハンガリー、マケドニア、オーストリアなど、それまでEUのシェンゲン協定国として域内における人の移動の自由を認めていた国である。明らかに目に「見える国境」の復活であった。EUが、シェンゲン協定で協定国間(域内)の人の自由な移動を認める段階まできたことからすれば、明らかに後退である。
他方、フランス、ベルギーなどで、大規模な連続テロなどが発生し、テロリストが中東とEUの間を自由に出入りしていたこと、移民の中にまぎれてEUに入り込んでいたこと、などが明らかになった。関係者にとってきわめて衝撃的であったことは、すでにアメリカ、9.11同時多発テロの時に問題となっていたが、彼らが移民として入国を認められていた国で、テロ行為を実行したことだった(home-grown terrorism)。
さらに、外国人が自国民の仕事の機会を奪う、宗教との関連では移民にイスラーム教徒が多く、キリスト教文化主体の国になじまないなどの反発が生まれてきた。これらのある部分は「外国人嫌い」xenophobia といわれる域にまでいたっていることなどが指摘されるまでになった。なかには、公然と外国人入国制限を表明したり、「豚肉給食問題」(デンマーク)のように、かなりあからさまにイスラーム教徒を差別・排斥するような動きも出てきた。これらの動きの多くは、極右政党の台頭、勢力拡大と関連している。これらは、「差別」の分類でいえば、外国人に対する「明白な差別」に近い。他方、一見すると判別しがたいが、さまざまな形で次第に外国人を遠ざけるような「明白でない(隠された)差別」もある。
かつて、フランスの「郊外問題」の発生の時、目にした異様な光景が思い浮かんだ。そこはパリでありなが、ほとんどフランス語が通じなかった。アルジェリアなど、主としてアフリカから来た人々の住む地域だった。見えない国境の壁が厳然とたちはだかっていた。移民は受け入れ先国にあって、自国民が多く集まって住む傾向がある。その結果、「集住地域」「コロニー」のような場所も生まれる。
「見えない国境」は、多くが人々の心の中に作り出される。トランプ氏のいうアメリカとメキシコとの国境は目に見える。しかし、そうした壁を構築するという考えは、人々の心の中にいつの間にか生まれた「目に見えない国境」とつながっている。
移民(外国人労働者)政策とは、単に受け入れる外国人労働者の数や比率を増減したり、定住権を付与することにとどまらない。「見えない国境」が人々の心や社会に生まれないようにすることが、きわめて重要なことだ。国境の後ろに広がる「社会的次元」も重要な政策対象領域となる。定住を認める場合においても、外国人に日本語の習得を義務付けることは必要だが、国民の側にも偏見や差別を生まないための教育など、多くの施策が欠かせない。
日本はこれまで移民問題を政策的中心課題として取り上げ、国民的議論とすることを避けてきた。その結果、国民の多くは日本がこの分野においていかなる立場にあるかを正確に理解できず、「技能実習制度」のように、多くの批判にもかかわらず、歪んだままの現実が依然としてそこにある。それだけに、人口激減時代に窮余の策として提示される選択肢としての移民(外国人労働者)政策は、国民に開かれた問題提起と議論が欠かせない。