『つぶて』
中沢厚、1981、『つぶて』、法政大学出版局(ものと人間の文化史44)
子どもの頃、子ども同士のケンカで石を投げ合ったことがある。びゅんびゅん飛んでくる石に恐れをなして、傷つくものもなくののしりあってケンカは終わった気がする。また、水面に平たい石を下手投げで投げてはジャンプさせたことも思い出した。「パチンコ」と呼んでいたゴム製の飛び道具で小鳥やコウモリを撃とうとしたことも思い出した。そして、どこかの神社で、鳥居に小石が投げあげられていたり、祠や石像に石が積まれていたのを見たことがある。
子どもの頃の石に関わる経験がいくつもあったにもかかわらず、石がもつ力やその意味について、ここまでこだわったものは読んだことがなかった。そもそも本書を読むきっかけは、中沢新一の『僕の叔父さん網野善彦』で、その中で中沢新一の父君である本書の作者の事がふれられていたことであった。空母エンタープライズ阻止闘争で学生たちが機動隊に石つぶてを投げていた報道テレビを見ながら網野善彦や本書の著者が、思わず声を上げ、それを契機にして網野は『蒙古襲来』をものし、父君は本書をものした。
パレスティナにおける反イスラエルのインティファーダにしても反権力の闘争には石つぶてが投げられる。学生運動の投石もそうしたものであろう。しかし、単に、そうした状況的なものにとどまらず、人類にとって石つぶてとは何かについて、こだわったのが本書である。鉄砲が誕生する前、いや、それより前、弓矢が登場する前の根元的な飛び道具が石つぶてであったのである。そうした意味でも本書はもっと読まれてよいのではないか。
読み始めてから半分ほど読み進んだ後、しばらく放置していたのだが、ようやく読破できた。
子どもの頃、子ども同士のケンカで石を投げ合ったことがある。びゅんびゅん飛んでくる石に恐れをなして、傷つくものもなくののしりあってケンカは終わった気がする。また、水面に平たい石を下手投げで投げてはジャンプさせたことも思い出した。「パチンコ」と呼んでいたゴム製の飛び道具で小鳥やコウモリを撃とうとしたことも思い出した。そして、どこかの神社で、鳥居に小石が投げあげられていたり、祠や石像に石が積まれていたのを見たことがある。
子どもの頃の石に関わる経験がいくつもあったにもかかわらず、石がもつ力やその意味について、ここまでこだわったものは読んだことがなかった。そもそも本書を読むきっかけは、中沢新一の『僕の叔父さん網野善彦』で、その中で中沢新一の父君である本書の作者の事がふれられていたことであった。空母エンタープライズ阻止闘争で学生たちが機動隊に石つぶてを投げていた報道テレビを見ながら網野善彦や本書の著者が、思わず声を上げ、それを契機にして網野は『蒙古襲来』をものし、父君は本書をものした。
パレスティナにおける反イスラエルのインティファーダにしても反権力の闘争には石つぶてが投げられる。学生運動の投石もそうしたものであろう。しかし、単に、そうした状況的なものにとどまらず、人類にとって石つぶてとは何かについて、こだわったのが本書である。鉄砲が誕生する前、いや、それより前、弓矢が登場する前の根元的な飛び道具が石つぶてであったのである。そうした意味でも本書はもっと読まれてよいのではないか。
読み始めてから半分ほど読み進んだ後、しばらく放置していたのだが、ようやく読破できた。
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