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問いの連鎖が対話になる

2014年06月10日 | 雑記帳
 先週、秋田大学の付属小学校の公開研究会に参加した。「対話」というテーマを掲げて三年目。かつて同僚だった教員もいるので、楽しみに出かけた。少しはまとまった形で感想等を記そうと思ったが、正直ぽつぽつぽつと浮かんでくるだけで、きちんとした文脈を持てないままだ。ともあれ断片的であっても、今の時点でメモを残すことは大事と打ち始めてみた。


 全体会での研究発表は整然としたものだった。しかし、私のこのテーマに対する構えは2年前とほとんど変わっていない。まあ、これは自分が成長していないということか。「対話」の流行度?も若干下がったような気がするし、単純な私が憧れているのはやはり、その昔小さな山の学校が催した「対話集会」(2人で話す形で進める)といったような素朴な形態だ。


 早めに参観する教室に行ったら、まだビデオ担当の方が来たばかり。子どもたちが私たちの顔を見て、担任に訊く。「二人だけ?」。さすがに参観慣れしている付属小の子である。授業もマイペースで進めているような感じをうける子もいる。担任とのやり取りだけでなく、対立要素を持ち込まないとダイナミックな展開は望めないのかもしれないと、ふと思う。



 研究協議会は印象深い。「俯瞰的な読み」というのが最近のキーワードの一つのようだ。それを細部の読みにつなげて理解していく方向は、納得できる。しかしそのために推奨される一つに全文掲示であっては、学級担任がするべき日常の授業改善には少し荷が重い。しかしICTを入れれば、そうした物理的な困難さは解消に向かうはず。その活用は遅れている。



 長崎県から参加者が「(長崎も秋田も)子どもは変わりありません」と感想を言い切った。それはそうだろうが、では何が違うのか。その違いによって明確になるのは何か。それはどんな方向を目指しているか…こうした問いを連鎖させていくと、どんな子に育てたいのかが必ず明確になる。その点はないがしろにできない。果たして発言者にその意識はあったか。