すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

Aを求めてBを見つける

2014年06月16日 | 読書
 「2014読了」61冊目 ★★

 『脳がヨロコブ生き方』(茂木健一郎 ヒカルランド)


 著者のブログ「クオリア日記」には以前アクセスしていた時期もあったが、ここしばらくはさっばりご無沙汰である。
 今アクセスしてみたら、更新もずいぶんとのんびりのようである。(もはや撤退したのかな)

 この著は茂木氏のブログを編集者がまとめたものだ。
 読み取りに知識を要する項目もあるが、いろいろな切り口があって楽しい。
 ページの端も数多く折った。

 その中でも、冒頭のこの言葉はうれしい。励まされる。

 毎日ブログを書くということは、人間の脳にとってどういう意味があるか、ひとつにはメタ認知ということがある。(中略)新たな気づきが生まれたり、新しい発想が生まれたりする。


 もちろん、それは書いているレベルによりけりであるが、百分の一でも実現していたら嬉しい。

 端を折ったページを読み返してみると、氏の哲学的な言辞に惹かれている自分が目立つ。

 いくつか拾い出してみよう。


 それぞれの人が、自分の愛することだけにかかわっていれば良いのではないか。Busybodyの生き方の稜線は、次第に崩れていく。


 日本人が今、自己のアイデンティティの危機に陥っているとすれば(私は陥っていると思うが)、自らの底に降りていって、深層から何か鉱脈を探り当てるしかないと考えている。
 適当にガス抜きしている場合ではないだろう。


 年を重ねるにつれて、様々な社会的文脈にからめとられていく。その文脈の中で、一所懸命仕事をする、というのも尊いことだが、たまには文脈の衣を脱いで、裸にならないと、精神のどこかが麻痺していく。




 まだまだあるのだが、実は今自分のなかで最も揺れ動いている考えのありかが明確になったような気がする一言がある。
 氏は以前「セレンディピティ」ということを強調した時期があったが、その当時の文章ではなかろうか。

 確立した自己に情報が入り、出ていく、といった近代的自我のモデルの下に問題を考えるのはやめたい。生物の世界が、性の問題を含めて、いかに自己というものを簡単に踏みにじって新しい自己を作っていくかということを反省してみるべきだろう。


 唐突のように授業のことを持ち出すが、Aという課題だけを見つめてAにいかに近づけるかのみを考えていく、昨今のあり方は疑問だ。
 そしてそれがことさらに強調され、それ以外に目が向かなくなった傾向に、深い危惧を覚える。

 「Aを求めていたらBを見つけてしまった」というセレンディピティの考え方が、もっと授業の中で展開されてもよくないか。

 むろん初等教育のねらう基礎基本の徹底は、主軸ではある。
 しかし、そこへ至る道は常に張りつめていては駄目で、もっと蛇行したり、もぐりこんだり、跳びあがったりしてこそ、より強固な軸になり得るだろう。

 縮こまった、薄っぺらな道づくりをしていないかと、自問してみる。