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「分ける」と対極にあるもの

2014年06月21日 | 雑記帳
 文藝別冊として『まど・みちお』が並んでいたので買い求めた。
 2000年に初版が発行され、今年の3月に2刷となっている。

 まどさんの詩やエッセイ、そしてインタビュー、対談、さらに他の方々から寄せられたエッセイ等で構成されている。

 ぼやーっとしたような感じでぺらぺらとページをめくっていただけれど、河合隼雄氏の書いた「魔法のまど」という文章を読んで、はたとひらめいたことがあった。
 次の文章である。

 最近亡くなられた井筒俊彦先生が次のようなことを書いておられた。われわれは通常は自と他とか、人間とぞうとか、ともかく区別することを大切にしている。しかし、意識をずうっと深めてゆくと、それらの境界がだんだんと弱くなり融合していく。


 ここを読んで、ああそうか、まどさんの詩の魅力というのはそこなんだと思った。

 そして、すべからく詩とはそういうものかもしれない、という思いにとらわれた。

 「わかる」は「分かる」つまり「分ける」をもとにしているという論には納得がいく。
 毎日私たちは、わかるために分けることを多用している。
 その連続こそが生活と言えるかもしれない。
 そしてそれを突き詰めていくことを、学習と呼んでいるのではないか。

 ところが、詩とか詩情とかは、まったく正反対のものを指している気がする。
 そんな仮説が浮かんできた。

 分けずに見ること、もしくは分かれる前を想像すること、存在としてあるものの根に想いをはせていくこと…この感覚はどのようにして身につくか、皆目わからないが、せめてまどさんの詩に触れることで、今日考えたことを忘れずにいたい。

 たまたま開いたページに載っていた「つぼ・Ⅰ」という短い詩にも、存在の根ということが色濃く出ているではないか。

 つぼを 見ていると
 しらぬまに
 つぼの ぶんまで
 いきを している