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桜と絵本と豆乳と

基準を残して自己表現する

2014年10月09日 | 読書
 「2014読了」104冊目 ★★
 
 『本人伝説』(南伸坊  文春文庫)


 南伸坊って、そもそも何の人なのか。
 私には以前からこの「本人術」(別の言い方もあったと思うが失念した)の人としかイメージはなかった。
 プロフィールの一番トップをみると「イラストレーター」。
 ああ、そうかという感じである。

 ものを描く人は、対象をとにかく見つめ、その特徴をとらえることに際立つ力をもっているだろうから、紙などの替わりに自分の顔自体をキャンパスとしてとらえて表現したわけだ。

 この巧みさは、一度目にしなければ伝わらないと思う。
 今、テレビでは「ざわちん」なる女子が、マスクをして目を中心にしたメイクでそっくりを演じている。この元祖はやはり南伸坊だろう。

 しかし、こうやって70人以上の有名人を取り上げると、どうしても「えっ、これって本当に似てるの」と感じてしまうものが出てくる。
 ざっとした印象で自分の評価は、A(よく似てる)B(まあ似てる)C(無理してる)のバランスが、2対3対2程度かなと思う。
 そして、この割合は読者一人一人によって同じであっても、そこに入る「作品」はそれぞれ違うのではないかとふと思った。
 見方というのはやはり個によって異なる。

 それと比べて「口調」はある意味で共通に判断できることだ。
 写真に添えられている「本人(術者)談」がまた面白く、その人の声まで立ちあがってきそうで巧みだ。

 ところで「似る」とはどういうことか、例によって辞典で調べたら、「語法」として面白い記述に出会った(明鏡国語辞典)。
 「似る」には三つの言い方があるのだという。

 「親子は声が-(=複数の者が互いに似る)」
 「弟は兄と顔が-(=対等の関係で似る)」
 「子は親に-(=基準に照らして似る)」


 この本の場合は、三つ目になるだろう。
 いわゆるモノマネは、全てそうである。
 そして面白いと感ずるのは大抵の場合、オーバーに感ずる表現だ。

 そう考えてみると、「本人術」も含めて、すぐれた真似とはいかに同じであるかというより、「(その人の)基準をいかにディフォルメするか」にかかっている気がする。

 基準を残して自己表現することが「術」と言えるのかもしれない。