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参考にする意見は,どちらの道か

2014年10月25日 | 読書
 「2014読了」113冊目 ★★★★
 
 『知ろうとすること。』(早野龍五・糸井重里  新潮文庫)


 話題の本である。

 ある作物が商品となり、ほぼ同じ値段で、片方が福島県産、もう一方が○○県産だったときに、どちらを選ぶか。

 …こういう設定を自らに課すこと自体が、見えない差別なのかもしれない。

 ほんの少しでも出来ることとして、震災の翌年には福島に旅行もしたし、そこで一定の知識も得たような気分になっていた。

 しかし、正直自分はあまり「知ろうと」していなかったなあと反省する。
 震災や放射能汚染に限らず、何かを本気で「知ろうと」すれば、今の生活、今のツール、今の使い方でいいのか…と問われている気がする。

 それは、仕事の関係で震災の年に招いたある方からも言われた記憶がある。
 いずれ結着をつけなければと密かに思うのだが…。


 さて、この本である。
 糸井が序章で語る喩えは、相変わらず見事だと思う。
 非科学的な行動が、それぞれの人間に普通にあることを、こんな言い方で表す。

 もしかしたらその「2冊目の週刊誌を取る」というような行動こそが、知らず知らずのうちに風評被害みたいなことにつながっているのかもしれない。

 本屋で週刊誌を買う時、つい一番上のでなく、その下を取ってしまう行動(たしかに自分もよくする)の行動心理とは、実に危ういことなのだと思い知る。

 「触らぬ神に祟りなし」…触らぬのニュアンスは若干異なるが、「触っていいか」を決める判断を持つための知識を持とうとする姿勢こそが肝心と言いたいのだと思う。
 それが弱ければ「とりあえず触らないでおこう」となり、その消極性自体がどんどん膨らんでいく。知識を持つことと行動は別個ではあるが、知識を持たなければ自分の中に基準など生れっこないのだ。

 早野教授が坦々と語っていることは、結構自分の誤解や思い込みをほぐしてくれた。そして、新たに知った事実は、私たちの判断の拠り所になる点が多々ある。

 ここで、なぜそうした情報がマスコミに無視、軽視されてきたかを改めて考えてみるべきだろう。

 照らし合わせると、糸井が「もうひとつのあとがき」で、震災の年にツイートした「じぶんが参考にする意見」は、軽やかでありながら真実に近づく手立てだと考えられる。

 「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。
 「より脅かしてないほう」を選びます。
 「より正義を語らないほう」を選びます。
 「より失礼でないほう」を選びます。
 そして「よりユーモアのあるほう」を選びます。