すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

音読,朗読,暴論

2014年10月29日 | 雑記帳
 今回、校内での国語科指導案検討会で、単元名に入る「朗読」についての話題が出た。平成20年版の学習指導要領には、5,6年の読むことに「自分の思いや考えが伝わるように音読や朗読をすること」と記され、また復活した。音読と朗読の違いとは何か、という疑問は、以前から出されていたし、また頭をもたげた。


 指導要領をみると、その違いについては昭和20年代から大まかに「理解のためを『音読』」「表現のためを『朗読』」という区分が感じられる。しかし教室現場でそれが成り立つかと言えば、かなり疑問であるし、今の要領の文言とも食い違いがある。また昭和33年版では「話すこと」の領域にあったことも注目したい。


 通常であれば、音読も朗読も、表現的な要素と理解的な要素そのどちらもが含まれるのではないかと思う。どこからどこまでが音読で、ここからが朗読という線引きは実際的ではないだろう。となるとこれは結局のところ区分のための区分をしているに過ぎないのではないか。そう思うと楽に考えられる。辞典に当たろう。


 『国語教育研究大辞典』(明治図書)からポイントがわかる。音読には、広義には黙読に対する意味、狭義には朗読に対する意味がある。前者はもちろん声を出して読むことだし、後者は「表出や伝達を意識することなく」読むということである。その点を基本とすれば、他者に聴かせる工夫があれば朗読なのである。


 しかし、全て「朗読」と括ってしまうことは現実的ではない。だからいっそ、発表会にだけ使うというのはどうか。朗読はどの辞典を見ても「読み上げる」という意味が出てくる。つまり「大きな声」である。聴かせるべき対象に向かって届く声で、意味を伝えるのは朗読だ!「音読発表会」の言い方は止める!暴論だね。