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かわいそうもうらやましいも誤魔化し

2014年10月16日 | 読書
 『言えないコトバ』(益田ミリ  集英社文庫)からもう一言。


 自分は直接子供には言っていない気がするが、大人たちとの語らいでは時折出てくるその言葉を、こんなふうに考えてみたことはなかった。

 「今の子供はかわいそう」
 と言われて、うれしい子供はいるのだろうか?



 確かに。
 自分が子供だったら「だから、どうした」としか返答できない。
 それから、筆者は続けてこうも書いている。

 また、反対に
 「今の子供がうらやましい」
 と言われるのも嫌だった。



 確かに。
 「それで」「何が言いたいの」と返すしかあるまい。


 「かわいそう」も「うらやましい」も、結局のところ、言葉を発した人間との比較で生まれている言葉である。
 しかし、その人間の「いつ」と比較しているのか。
 単純に「子供の頃」と比べているように思うが、実はそれはあくまで「今」の自分が見た子供の頃であり、評価を下している自分こそ問題視されなければならない。

 「かわいそう」「うらやましい」を作っている社会、大人…嘆いたり羨ましがったりする前にすることがあるだろっ、ということか。
 言われた子供自身がどうにもできない現実を、同情のような見せかけコトバを吐いて、ごまかしているに過ぎないのではないか。


 第一、「かわいそう」「うらやましい」と呼んでいいような感情を、子どもたち自身が持っているかどうかを、本当の意味で確かめることなどできないのだから。

 当たり前のことではあるが、子供にコトバをかけるなら、その子がうれしくなるような、または、くそっがんばってやるとしんから思うような、そんなふうに気持ちを動かせるものを選んでいくべきなのだ。