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ご先祖様になれない私達

2014年10月14日 | 読書
 「2014読了」106冊目 ★★★
 
 『ご先祖様はどちら様』(橋秀実  新潮文庫)


 第10回小林秀雄賞を受賞した作品であり、クオリティも高いのだろうが、いつもの橋節?で楽しく読めた。
 自分の先祖のことなどあまり考えたこともなかったし、あっても自分の記憶にある範疇、つまり祖父母とその兄弟ぐらいまでしか遡っていなかった。

 しかし、改めて数的なことを考えてみると、自分の「ご先祖様」の人数にはびっくりする。
 単純に20代さかのぼって計算してみると、一人の人間に対して1048,608人いることになる。一世代を20~30年と考えて、およそ500年前の日本?には私の先祖が100万人いる。

 これって結構な数ではないか。
 そんなふうに考えると、その中には歴史的に有名な人もいたりして…というミーハーな気持ちも出てくるのである。

 著者が書こうとしたきっかけは知り合いの先輩作家に「縄文人」と言われたことから始まる。
 そこからの追求の仕方は、やはり橋節。
 ちょっとした言葉を気にする、仕草に心が動く、ひょっとしたらという妄想を働かせる…その巡り方は物語のように面白いが、はっきり言って劇的な展開とまではいかない。

 それは結局のところ、家系調査をめぐる困難な壁ということだ。それゆえそこに関わっている人物のユニークさをうまく引き出していると思う。

 この本の一つの結論はこれだろう。

 家系は考えるものではなく感じるものだと思うしかない


 これは敗北や撤退宣言ではない。
 いろいろと歩き回った末に著者が、はっきり「知らなくていい」と認識した一言だろう。

 次の文章にも深く納得できる自分がいる。

 わからないからこそ、先祖は「ご先祖様」なのである。確かに、もし先祖の記録が現代の個人情報のようにどこかに保存されていたら、と想像するとゾッとする。

 そして、さらにゾッとするのは、そういう時代に自分たちが生きているということ。

 この本に多く出てくる墓地のシーンを読みながら、時々墓参りに行き、ふと思い浮かべることが頭をよぎる。
 何十年後、何百年後、この墓地はどうなるのか…想像できずに佇むしかない。
 自分も誰かの先祖にはなっているのかもしれない。
 しかしこの場所の土になっている時代に、今の自分の記録だけはきっと明確に残っていたりする、どこで何をしたかだけではなく、どんな経済状態で、何を好み何を買っていたか…それじゃあ、やはり「ご先祖様」と崇められることはないだろうな、たぶん。