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地域文集回顧~熱弁

2014年12月27日 | 雑記帳
 子どもたちの作品を読んで幸せになったはいいが,恥ずかしくなったり,考えさせられたりする「大人」の文章もあった。

 第20集という記念号に「Aさんへの手紙~あとがきにかえて~」という,なんとも,熱のこもった(ただそれだけの)拙文を書いていた。

 Aさん,私たちに今必要なのは「心がけ」やスローガンではありません。
 一歩を踏み出すことです。
 意味ない「忙しさ」や「形式」を打ちやぶることです。真に子どもたちのため,地域のためになる行動を創り出すことです。かつて羽後に集った先輩の先生方は,羽教振を発足させ,様々な講師を迎え学習し,文集を発行させたではありませんか。



 二十数年が経ち,その役割を担う大きな関わりを持った者の一人としては,情けない気持ちが湧いてきてしまう。


 改めてもっと古い号の巻頭言やあとがきなどを読むと,先輩の先生方がいかに幅広く,深い見識を持っていたか,わかる気がした。

 例えば第15集の巻頭言の一節である。

 言語を獲得する,作る技術を獲得することの意義は大きい。しかし,子どもたちの日常の目の確かさや,身のまわりの見えるものへの愛着がなければ,見えない心を見たり,不透明なものを突き通す力は生まれてこないだろう。(田口恭雄先生)

 例えば第10集のあとがきの一節である。

 私ども教師は,詩や作文をつづる子どもたちの,生活の土壌から心配しなければなりません。東北の貧困性は今形を変えて現れています。にもかかわらず,うわべはゆたかであります。この見せかけの繁栄につかってしまい,あまりにもめらっと育てている家庭や,のっぺりのほほんと育っている子供たちのくらしざまを,まず問題にしなければなりません。(佐藤光幸先生)


 「ことば」はいつも熱を放っていたはずだが,何かに覆われたり,埋もれたりして,結局,現実を思うようには変えてくることはできなかったと言えよう。

 しかし,常に現実と対応させて考えるという原則さえ踏み外さなければ,ことばの発熱機能は簡単に消えたりはしない。

 今,どんなことばを使い,どんな方向に導こうとしているのか。
 浅く考えないで…もしかしたらもっと口ごもってもいいのか,と思う。