すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

些細なものの怖さを眺めてみる

2014年12月09日 | 読書
 「2014読了」130冊目 ★★

 『家族解散』(糸井重里  新潮文庫)


 この本の存在は知らなかった。
 古本屋の100円文庫コーナーで背表紙を見つけ,そのままカゴにほおりこんだ。

 小説,しかも昭和期の作である。
 かなりシュールな感じがして,誰かのに似ているなあと思いつつ読み終えたら,「解説 高橋源一郎」とあって,そうそう,以前初めて高橋源一郎を読んだときの印象に近いことを思いだした。

 その解説で高橋が書いていることが興味深い。
 それは,すべての「家族」小説のパターン解説であり,いわゆる「文学的」であることの安心感である。
 そこで書かれたパターンの内容は新しくはないだろうが,個人的には納得させられるものだった。

 つまりは,「些細なもの」の登場によって,揺さぶられる日常の部分が,個人内でどの程度拡張していくのか,そんなことではないかな。

 しかし『家族解散』の主題などは,私にはちんぷんかんぷんだ。

 ただ,なぜか気持ちよさを感じる文章が,糸井の場合は「詩片」といっていいと思うが,いくつか見つけられた。
 そこに勝手にシンパシーを感じている自分には,おそらくその文章に近いことが「些細なもの」になっていくだろう。
 自分にとっての些細なものを感ずる部分を引用しておく。

 ポテトチップスの空袋が,何度も踏まれ,何度も雨にうたれ,まるで生まれた時からゴミだった,みたいな姿で明彦の目の前にある。

 国語の教師が,自分の文章をプリントにして試験問題にした。その問題文に,答えるのではなく,感心なんかしてしまったのは,明子ひとりだけだったかもしれない。たぶん明子にだけ感動される文章を書いてしまった教師は,半年後に自殺してしまった。

 ヒロコちゃんには,「身ひとつ」の他には何もない。身がひとつ,今日生きていくために必要なものが,少しだけあって,それ以上何も欲しがってはいないのだと,小倉さんは思っていました。



 書き出すと,改めてこれらの「家族」は,解散に向かうための道に入り込もうとしているなあ,と感じてしまう。

 もちろん,読者(自分か)が同じように解散や崩壊に向かうかどうか,それはまた別の話。