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制服を着ながらもがき続ける

2014年12月20日 | 雑記帳
 久しぶりに『文藝春秋』誌を買った。
 行きつけの書店でたった一冊だけ残っていた。
 ねらいは、「高倉健 最期の手記」だった。手に取ると表紙には「戦後70年記念特大号・完全保存版」と赤字で記されている。
 ずいぶんとボリュームがあるから、ずいぶんと読み応えがありそうだ。


 まずは健さんの手記。
 亡くなる4日前に完成し編集部へ届けられたという。

 「諸行無常」で始まり「合掌」で終わる、その遺稿は淡々と映画人生を振り返るものだったが、文章の持つリズム感はインタビュー等で見せる朴訥な面とはまた違う印象がある。
 数日前、録っておいたNHK特集でその姿を見たばかりなので、よけいにその差異を感じる。
 しかし、表面上はどうあれ、俳優高倉健としての本音は、この文章に尽きることだろう。

 僕は、志があって俳優になった訳ではない。思いもよらない変化をかいくぐりながら、出逢った方々からの想いに応えようと、ひたすらにもがき続けてきた。


 6ページ分になった遺稿に続き、沢木耕太郎が20ページにわたって「深い海の底に~高倉さんの死」と題して書いている。

 出逢いのきっかけ、親しくなっていく経緯、少しのすれ違い、そして果たせなかった願い…沢木の筆力によって、そのつかず離れずの視点からの高倉健がよく伝わってくる。

 二人で映画づくりへの道を探るうちに、沢木が気づいたことがあった。
 高倉には「制服への強いこだわり」があるようだと書いている。その点が理解できない沢木とは、結局映画化が実現しなかった。
 しかし「制服への強いこだわり」というのは、もしかすれば任侠路線の頃から現在に至るまで貫かれているのではないか、と想像できる。

 それは、高倉本人自身も「自分を変えた一本」として挙げている『八甲田山』にも強く現れているだろう。『鉄道員』もまさしくそうではないか。

 制服は、整然さや強さの象徴でもあるが、同時に一面では自分を縛っている。
 その理不尽さと対峙する人間性に、高倉健の魅力が発揮されてきたように思う。