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適度な不明さのある賀状

2014年12月16日 | 雑記帳
 そんなに熱心に取り組むわけではないが、年賀状づくりには毎年少し悩む。オリジナル一辺倒というわけでもない。しかし職についてから印刷を他にお願いしたのは、わずか2回。上の娘が1歳のとき、そして学校に入る年に姉妹で撮ったとき、どちらも写真店に頼んだ記憶がある。あとは自前でそれなりに作ってきた。


 職についた頃はプリンターなどなかったので、こっそり印刷機を使わせてもらったり(もう時効ですよね)、その後は、例のプリントごっこを使った多色刷りができるので絵を描いてみたり…忙しいわりに結構やったものだ。何か気のきいた言葉を書き添える形にしたことが自分の特徴だろうか。その頻度は多いと思う。


 パソコンを使うようになってからは写真入りが多い。腕前はたいしたことがないのに、いっぱい使いたくて、一昨年などは十数枚も無理やりにはめて構成した。かなり過剰な自己満足だとわかっている。たった一人でも、それが家族でも誉めてもらうと嬉しいこの単純さよ!それゆえに?デザインに大胆さがない(自評)。


 何でもかんでも詰め込み過ぎ。まるで研究会などで授業をしたときの悪癖がそのまま出ているようだ。イメージやメッセージを絞り込みすっきりと、と思うのだが、作り始めているうちにあれもこれも、となる。この余白がサミシイ、となる。これはやはり貧乏人の発想だろうなと思う。それでは受け手に響かない。


 で今年は…と数日前から考えて、今年は折句を久々に使おうと決めた。それを中心にあとはごくシンプルに構成したい。休日、ソフトや今までのデータなど見ながら取りかかってみると、やはりいろいろ入れ込みたくなる。そこをじっと我慢、我慢で、極力抑え目のデザインに仕上げてみた。インクの一色が妙に減る。


 素案が出来たので、連名差出人である家人へ見せる。「いい」と評価したが、肝心の折句を読むのに難儀する。あまり使われない書体だからだ。読みやすくするかと考えるが、もしかしたらこの読みにくさ、わかりにくさがなかなかよろしいのではないか。適度な不明さが人を引きつけるのは、授業の基本でもあった。