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桜と絵本と豆乳と

養鶏文明に腹立てながら

2015年01月26日 | 読書
 【2015読了】13冊目 ★★
 『こまった人』(養老孟司  中公文庫)

 この本も再読である。以前は新書版だったがどの棚にあるか定かでないし、文庫版が108円なので即買ってまた読んでみた。
 発刊がちょうど10年前。
 あのイラクの人質事件があった頃、盛んに流布された「自己責任」という言葉は、いまだに健在?であることをしみじみ思った。

 外交は自分には遠いことのように思われるが、この国を計る大きな一つの目安なのかもしれない。この10年で変わったこと、変わらないこと…。


 養老先生の書く文章は理解できない部分も多いが、どこかひたひたと馴染む感じもあり結構読み進めることができる。
 そして、時々びっくりするくらいわかりやすい比喩で、現実の位置を、私達に教えてくれる。

 今回は「養鶏場に似るヒト社会」が、心に迫った。

 ◇ブロイラーとして飼育されている鶏は、現代の都会人に似ている。目の前を餌と水が流れ、小さな金網の檻に閉じ込められている。いささか狭いとはいえ、この檻をマンションだと思えばいい。

 珍しい喩えではないが、実に的確だと思う。養鶏場とヒト社会を対照させた文章は続く。

 ◇人間は(略)、広義の餌の問題を考えると、移動は決して自由ではない。広義の餌とはつまり給料で、餌をくれる勤務先から勝手に逃げ出すわけにはいかない。


 生態とは多様なはずであるが、いつしか人間社会はその多様さをなくし、商品化や病気の流行などに見られるように単調さで覆われるようになっている。
 問題は,単純に場としての都会を指しているわけではない。

 ◇いま日本の町の郊外に出たら、どこがどこやら、まったくわからないであろう。コンビニ、ファミレス、パチンコ屋、ガソリンスタンド、これでは地域の特性もなにもない。大きく見れば、しだいに養鶏場に似てくるのである。
 ◇経済効率を考えれば、鶏をああいう形で飼う「しかない」。同様に、ヒトも都会人という形で生きる「しかない」。


 おそらくグローバル化とは、そういうことなのだなと、じわりじわりと沁みてくる。
 経済効率という指標について辛辣な批評をしながら、一人一人に暮らしの決断を促して文章は結ばれている。


 ああ養鶏場かあ、と想像してみると、身の回りのいろいろなことがそう思えてくる。
 せめて、放し飼い程度の環境改善を、などとみみっちいことも考えてしまう。

 四角く狭い金網のなかで、「養鶏文明」に腹を立てたところで何も解決しないことはわかっている。
 そんな自分の姿が見えたことが、何かの足しになるとすれば、まずは声をかけるべきは身の周りであることははっきりしている。