すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

やはり、強烈、圧巻であった

2015年04月07日 | 読書
 【2015読了】34冊目 ★★★★★
 S2『斎藤喜博を追って』(向山洋一  昌平社)


 新採用者研修の帰りだった。初夏だった気がする。
 この初版本を秋田駅前の書店で購入し、電車に乗り込んだ。

 向かいに座った同期採用の才女(高校の同級生でもあった)から、「斎藤喜博って読んだことなくてねえ…」と声をかけられたのを覚えている。
 確かに、自分の入った大学はかの斎藤喜博が教授となったところだったし、いくらかのシンパシ―もあったので、その名前を手がかりにこの本をとったことは確かだ。

 しかし、その出逢いは予想を超えて強烈だった。
 こんなに時が経ってもそのことを忘れないという意味では、自分にとってエポック・メーキングな一冊であったことは間違いない。


 再読シリーズは、本文を引用しない形でと思ったが、どうしても書きつけておきたいのは、この部分だ。
 教育技術の法則化運動が広がりを見せるなかで批判めいた言辞は数々あったが、向山洋一が一つの尊敬できる対象として自分の中に在りつづけたのは、たぶんこの一文が意味した重さゆえだと感じる。

 (とび箱を)「全員とばせられる」というのは、誰でもできることなのである。しかしそれを人前で言えるまでには、やはり、A・Bの方法でもできない子どもをどうしたかという、一つ一つの仕事の積み重ねが必要なのである。(P14)

 その「仕事の積み重ね」は、今読んでも圧巻である。

 (この本を形容するのは不遜と思いつつ、あえて言い切りたい)

 教師という仕事を志す者が、その範囲や深度を考えるため、また自己をその場に重ねられるかを判断するために読み浸りたい一冊。

 ◇教育活動は、子どもの事実で語るべきことであり、それは教師の個人的活動で終わらせてはいけないことである。
 ◇空しいと思われるような行為を続けることによってしか、価値ある実践はできない。
 ◇教育の構造を把握するためには、自ら学問や文化に対して希求していく姿勢が不可欠だ。
 (たとえば、私たちは「賞を与えて子どもを励ます教育方法」が日本でいつ定められたかを知っているのか)