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見せないものを問う映画

2015年04月11日 | 雑記帳
 休日に録画していた『横道世之介』を観た。

 原作を読んだ印象がとてもよかったので、見たいと思っていた作品だ。

 2年前に映画公開されているのだが、今みると味わい深い。

 吉高由里子が主人公の恋人となるお嬢様役で出演している。
 これがぴったりしているとともに、初シーンはあの「花子とアン」を完全に彷彿させる「ごきげんよう」という挨拶とともに登場するのだ。

 「花子とアン」における挨拶はパクリか(全然そんなことはないのだが)と思わせるほど、強烈な登場だった。
 「花子とアン」における吉高主演について、何度も合わないことを書いた気がする。やはり感覚的に「田舎出」の雰囲気に合わないという結論に達した。
 しかし、かなり上手な俳優だと思うし、あと10年もしたら様々な役をこなすのかもしれない。


 この映画の特徴は、人物が登場しないシーン(登場するまで、また退場したあとなども含めて)が長いことだ。通常?1,2秒で済ますところが5秒以上もあったりする。
 専門的な言い方もあるのだろう。当然、何らかの意図があるはず。

 「場への浸り」から「場面の意味づけ」をよりはっきりさせるためなのかな、と素人考えでは思う。とにかく場所さえわかればいいという発想には立っていない。
 ただ商業映画であれば、全体の長さはかなり大きな要素だと思うし、そのあたりはいろいろな格闘があるのかもしれない。実際、この映画は3時間近い。


 ふと、この映画は「見せないものを問う」形に仕上がっていることに気づく。
 もちろん原作でもそういう要素があったが、映像だからこそよけいに際立つ。

 例えば、世之介がカメラを志すきっかけとなる一枚の写真は何だったか。
 例えば、雑誌に取り上げられた世之介の記事(のようなもの)は何だったか。
 何より、世之介の描かれなかった十数年である。

 そこに読者、観客の想像が惹きつけられるとき、この作品は大きく意味を持つに違いない。