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衆流に溺れない

2015年04月04日 | 雑記帳
 【衆流截断】(しゅうりゅうせつだん)
 【截断衆流】(せつだんしゅる)

 この世の妄想や気を散らす邪魔な考えを完全に断ち切ること。
 「衆流」は様々なものの流れという意味から、雑念や煩悩のたとえ。
 「衆流を截断す」とも読む。
(四字熟語辞典オンライン)


 はたして人は、何ごとにもとらわれず生きていくことができるのだろうか。何ごとにもとらわれない境地とはいかなるものか、平々凡々として暮らす我が身にはわからない。しかし、たぶん何か一つのことに没頭する時間はそれにいくらか近い感覚ではないだろうか。とすれば、まずはそうした時間を大事にしたい。


 最近、いや正直に言えば昔からそうなのだが、どうも一つのことに打ち込むことができない。何かをしていても常に周囲のことが気になったり、別のことに気を奪われたりすることが日常的だ。どうやら仕事はこなしているが、この性格を本気で心配したりすることも時々ある。…待てよ、一度居直ったことがあった。


 あれはもう十年以上前だ。私より一つ上のある同僚の姿を見ていて、チャランポランのようにふるまっていながら、実に的確な言動をすることに驚いていた。ふとこの人には「集中力」とは真逆の能力があるのではないか、と思いついた。それをなんと名づけたのか失念したが、その思いつきは今でも自分に残っている。


 修行僧のような、武士のような考え方だけが「衆流截断」とは言えないかもしれない。様々な雑念、妄想の海の中にあっても、自分の姿や位置取りを見失わなければ、多少身動きがとれない状態にあっても精神は伸びやかさを失わない。いつでもそこから放たれる準備をしていることになる。溺れないことが肝心なのだ。