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「チーム学校」に見え隠れするもの

2015年04月20日 | 雑記帳
 ある教育雑誌を読んでいたら、「チーム学校」という表現がずいぶんと目立った。言うまでもなく、昨年7月に文科省より中央教育審議会に諮問された「これからの学校を担う教職員やチームとしての学校の在り方について」が端を発したものだろう。現場でのチームという言い方は、TT以外はあまりしていなかった。


 今回の場合は、記事の一つに文科省審議官が書いているように「専門スタッフを増やす」という考え方があるらしい。それに対しては大歓迎だ。しかしこうした言葉遣いは、時に現場をかえって締めつける場合もあったりして、その本質や留意点を確かめておかないと、勝手に歩き出したりする。少し考えてみたい。


 ドラマ好きの自分にとって「チーム○○」が一般的に感じられるようになったのは、医療モノ「チーム・バチスタ」だろう。ミステリの部分は置くとして、それぞれのプロフェッショナルが執刀医というリーダーのもと、役割を完璧にこなして難手術に挑むイメージだ。審議官も例として「チーム医療」を出している。


 しかし「チーム医療」だったら「チーム教育」になるはずと変なこだわりを持ってしまう。「学校」という組織そのものを「チーム」と形容することは、そこにチーム機能の弱体化を見ているに違いない。それは認めよう。だが肝心なのは、あくまで教育の対象に向かう中身であり、学校そのものが対象化されても困る。


 明確な役割分担と責任、指示命令系統の徹底だけでは、教育の持つ多様性、多面性が損なわれる。そういう意識を保っていくバランスは不可欠である。「チームとしての学校」は肯定できても、「チーム学校」には警戒心を抱く自分の拘りを、実は笑い飛ばしたいけれど、こういう言葉が生まれる流れに何か見え隠れする。