すぷりんぐぶろぐ

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ウメェこと言うなオメェも

2015年04月27日 | 雑記帳
 立川談春の三十年記念落語会は楽しみに待っていた。去年の11月末はチケットを取っていたのに、研究会があったために泣く泣く家族に譲った。今回は先行予約で取ったはいいが、どういうわけか最後列になったので、なんだか悔しく、職場の文化活動事業予約にも申し込んだらそちらも当たり、少しいい席が取れた。


 結局1倍半ほどの料金を取られたが、それでも談春を2時間以上聴けるのであれば…。全体評として「さすが」とは思った。ただ本人が言うように花粉症?のためか喉が少しやられているようだ。声のきれが少し気になった。演目は「宮戸川」そして著書「赤めだか」のドラマ化のことを語り、メインが「百年目」。


 「百年目」のサゲを変えることがパンフに書かれてあって、それが今回のツアーの目玉らしい。確かに談春なりの施しがされ人情噺として仕上がり、客の拍手も長く続いた。しかし今回、自分はそれ以上に談春の語る仕事論、プロ論のようなことが心に響いた。なるほどウメェこと言うなオメェも…という感じだった。


 一つは「稽古」ということ。壁に向かって一万回繰り返したって、お客を目の前にした一回に敵わないかもしれない、と口を開いた。つまり、毎日の高座そのものが稽古であると。昨日のどこかの高座は、今日の秋田のための稽古であり、今日のここでの高座は、明日の盛岡のための稽古であると。この心構えよしだ。


 もう一つ。落語の語る世界を理解できるかどうかではない、ということも喋った。例として歌舞伎などを持ち出しこんなふうに語った。「見てもわからない。けれどそんなことではなく、きれいかどうか、気持ちよいかどうかでしょ」…確かにと頷く。なぜ談春がいいか、それを姿・形と書いたことが過去にあったなあ。