すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

スキルの先にあってほしい雲

2015年08月04日 | 雑記帳
 岩下先生の著書を再読しつつ、先週の講座を思い出してみた。今日はその一日を振り返りながら少しメモしたい。空港へ迎えに行き、会場までの移動一時間少しで様々な話が出来た。初めての秋田はかの教育技術学会で今回は2回目ということ。専攻は社会科だったことや、斎藤喜博や島小実践などへの憧れのこと。

 
 単発テーマ(読解とか音読とか)の講座は何度もしているが、トータルな会はほとんどなく張り切っていると伺い、素直に嬉しかった。岩下実践には「連動」の要素が強いと考えていたので、その点はぴたりと重なった。「でも、資料がいっぱいになって…」と語られる姿には、伝えたい心が充満しているようだった。


 模擬授業+質疑2コマ、講話1コマ、そして質疑応答・交流コーナーとやや時間延長となって4時間半ほどの研修会は、参加者にどうとらえられたか。おそらく技術面で刺激をうけただけでなく、質疑後半に発せられた、ある意味重い問いについて、考えざるを得なかったのではないか。本質的な授業観の問題である。


 「ねらい」のない授業などない。しかしそこに教師が縛られていいのか、という問いかけが感じられた。講話にあったE・フロムの言葉に象徴されている。「目的を持ち、その達成を目指すというより、今日、この時間、だれかのために存在している人になれ」。質問に応える際の発語までの間の長さを、私はそう見た。


 研修終了後の小宴で、明治図書の連載についての話題も出た。タイトルは、今回の講話のテーマにちゃっかりいただいた「国語授業が目指す“スキルの先の雲”」。この「雲」という言葉が、講座で語られたのは次の二ヶ所だった。「時には見知らぬ雲の中を通過したかもしれない」「果てない雲をぼんやり思い描きながら


 クラウドというデータ活用を表す意味に留まらない、複眼的なとらえだろうか。しかし、春に私が初めてその文言を目にした時、浮かんだイメージは、あの『坂の上の雲』だった。「登って行く坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いているとすれば…」。そんなふうにスキルの先には、輝く青空、白い雲があってほしい。