すぷりんぐぶろぐ

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膨張するフツーのなかで

2015年08月20日 | 雑記帳
 木皿泉(夫婦ユニット名らしい)という脚本家が新潮社の『波』に連載していて、その一節に次のような文章があった。

 このへんに子供の頃、住んでいた。
 何もないフツ―の街だったのに、何でもある街になってしまった。
 何でもあるということが、なぜか少しさみしい。


 涼しい風のような共感の気持ちがわいた。

 「何でもある」ことが「さみしい」と結びつくことを、物質的な豊かさと精神的な貧しさで語ることは、ありふれている。
 しかし、もう一つ掘り下げてみることもできる気がする。

 とすれば「フツ―」であろう。
 「何もない」ことがフツ―であったのに、「何でもある」ことがフツ―になってしまったのだ。
 そしてまた、書き手が思うフツ―が、世のフツ―と食い違ってきたという見方もできる。

 きっと「何もない」時代には、自分のいる場所をフツ―と思ってはいなかった。
 何がフツ―が分からなかった。
 目の前の物事が変化し、「何でもある」ことがフツ―になってくると共に、これはフツ―じゃないと思い始めたのではないか。
 「何もない」ことの方がフツ―だったのではないか、と考え始めたのではないか。

 それは、きわめて個人的な感傷めいた思いに過ぎない。

 現実にはフツ―が膨張していて、当然ながらそれとともに多くの個のフツ―も膨張している。

 そういう世の中で、一緒に膨らまないフツーを抱える人は、さみしさを感じるものだ。

 何もない時はフツ―に留まっていられたのに、何でもある場ではフツ―に背を背けたくなる、単なるへそ曲がり的発想もあるかもしれない。
 もしかしたら、少し怒りも感じているかもしれない。

 さみしさも怒りもなだめながら、「何」にとらわれず、これが「フツ―」ですと言える境地に立ちたいものだ。

 そんなこと言っていたら「フツ―」と言っても、「不通」の人と見られるかもしれない。