すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

重さを増した言葉たち

2015年08月03日 | 読書
 先週金曜日の岩下修先生の講座を思い出しながら、再読していくつかメモしておく。

 動きや表情を伴った肉声に接し、その後再び文章に触れた時、重みがぐっと増すような、素晴らしさを感じることができる。


 【2015読了】69冊目
 S14『教師の言葉が生きる瞬間(とき)』(1999 明治図書)

P33 人に向かって表現する身体と言葉を育てることを通し(=B)、人に向かう心も育てる(=A)

P123 「見る」「聞く」という行為は、情報得るために必要であるという面ばかり考えていた。「見る」ということには、もっと大事な面があったのである。「見られている」ことによって、安心したり、自信を持つことができるという面である。

P158 「知覚全開の身体」を支えにして、「ここで、今、相手に本当に必要な言葉」が浮かび上がってくる。言葉を作るというより、奥深くから生まれてくるのを待つという感じである。



 【2015読了】70冊目
 S15『学ぶ「からだ」を育てる』(2004 明治図書)

P13 今、子どもたちに必要なのは「表現知」である。からだの「表現欲求」を満たしながら「知的欲求」も満たしていく試みである。

P40 今、子どもに必要なのは、一人の人間として自らを総合化できる場である。一人の人間として総合的に共に成長していく大人の存在である。


 【2015読了】71冊目
 S16『国語の授業力を劇的に高めるとっておきの技法30』(2006 明治図書)

P54 「あれっ」という驚き(=情)と、ほぼ同時に、「なぜ?」(疑問)→「なるほど!」(発見・納得)が生じる。つまり、情と知の同時発生となるわけだ。このように、意外性を発揮させながら、現物を使っているわけである。

P57 大事なのは、本当に誰かと視線を切り結んでいる教師の目である。誰か一人と語っている教師の身体である。このような教師の身体を見れば、子どもたちは、たとえ、その瞬間、自分を見てもらってなくても、安心できるであろう。自分だって、あのように、見てもらえる可能性があるのだから。



 【2015読了】72冊目
 S17『教師と子どもの読解力を高める』(2009 明治図書)

P86 主題は山頂だ。山頂まで到達するのが読解の授業の醍醐味だ。多少違う山頂であったとしても、山頂に立つのは気持ちがいい。他の山頂が見えるのもいい。

P118 「語りの形態」としての音読は、必然的に解釈を生み出していく

P177 何のための国語指導か。私は、「想像力、創造力、自己有用感」の三点を念頭に置く。すべて、人間の根源的欲求を満たすものである。どんな国語の指導も個人と社会を幸せに導くものでなければ、意味がないのである。


 次の作業は、自分のなかでイメージできる場を思い起こし、再び作り出せるか、ということである。