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身銭を切って身銭をつける

2015年08月09日 | 雑記帳
 岩下修先生の講座で使われたPPTに、数回内田樹氏の文章の引用があった。
 そんなこともあり、ちょっとこの頃、内田節は御無沙汰しているなあ、と思って文庫本を一冊買い求めた。
 ところがそれを読む前に、たまたま手にした月刊誌で『村上さんのところ』(村上春樹著)の書評記事を見つけ、またまた、ううむと唸ってしまった。

 たぶん、僕たちの社会では「質問する」というのはそのまま「難問への一般解」や「目的地へのショートカット」を求めることだと信じられている。だが、一般解をいくら覚え込んでも、それは自分がいま抱え込んでいる特殊な問題の解決にはならない。


 研修会を開く。質疑応答がある。
 沈黙の場合もあれば、積極的に何人も挙手する時もある。
 質問者はもちろん何らかの解決を求めて語り出すわけだが、講師らの返答に対してどれほどの人がどれほどの満足度を得るのだろう。

 学校教育の場合、具体的な指導方法が質問例だとしたら、結論はただ一つである。
 講師がどんなに上手なアドバイスをしても「やってみなくてはわからない」。

 内田氏の文章は、こう続いている。

 自分の問題は自分で「身銭を切って」解決する以外にないからだ。
 でも、そのためには切れるだけの身銭が身に付いていないと話が始まらない。


 この場合の「身銭の付け方」は様々あるだろうけど、同じ言葉をもともとの観点でいうと、「身銭を切って」研究会に参加することも一つの手だろう。

 研修会に参加しただけで、力量がつくと勘違いしてもらっては困るが…
 積極的に問いを投げかけるようにして、自らの主張を展開するだけの人も困るが…

 それにしても、やはり様々な会に、自由な時間や金銭を使って参加することは、自分に浸透していく学びの質量が異なるはずである。

 実際に役立つ身銭とは、おそらくは学んだことと実践したことの相関によって形づくられる。

 切れるだけの身銭を持つためには…本当の身銭を切って身銭を身につけるしかない。