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適当な言語の適当な見解

2015年08月26日 | 読書
 【2015読了】84冊目 ★★
 『走らないのになぜ「ご馳走」? NHK気になることば』(NHKアナウンス室 新潮文庫)

 言葉の雑学本である。
 一章の初めの項目「なぜ『もも』なのに『ひざ枕』?」が示すように、ふだんは気に留めない事柄でも、問われてみると「えっ」と思ってしまうような、言葉うんちくを語りたい自分などに向くような本である。


 慣用句やことわざ、警句など、その解釈は結構人によって違うものだと言うことを改めて知る。
 例えば『継続は力なり』…これはよく使うが、「続けることが成果に結び付く」以外にも、「続けるためには努力が必要」という意味もあるらしい。で、正しい解釈は、というと、これはわからないが結論という。つまり辞書やことわざ辞典には載っていない。
 大正期の夜間中学の校訓であったことが判明したという記述も興味深いが、結局「受け止め方は個人に任せられている」ということだ。

 それこそが、日本語の大きな特徴とも言えるのかもしれない。

 もともとの意味があっても、違うニュアンスで受け取られ、そして別の意味で使われ始め、それが拡がることによって、意味が拡大したり、新しい使い方が主流になったりする。
 日本語のもついい加減さとも言えるが、柔軟さと捉えることもできる。
 二重の意味で、「適当」な言語と評していいだろう。


 「感動にも『鳥肌が立つ』?」という項目で書かれてある、若者が使う「やばい」という言葉について、個人的見解を述べてみたい。

 本著の中にはこう記されている。

 「やばい」は、本来は”危険だ”という意味ですが、最近はおいしいものを食べたりかっこいい人に会ったりすると「やばい」という若者もいます。”とてもおいしい””かっこよすぎる!”という意味で使うのですね。

 この「やばい」は、若者(だけでなく広い年齢層)にある無関心、無感動の蔓延がもたらしている表現ではないかと想像している。
 つまり、心が動いてしまうことが「やばい」という、自分に引き付けた感覚なのではないか。
 「あまり心を動かしたくないのに、それが崩れてしまいそうで、危ない」…

 感動を他者に知られたくないという構えを持っている反面、実は感動を知ってほしいという願いも持っている。
 そして「やばい」という言葉が多用されたことによって、その動きを肯定しても構わないような雰囲気を作っていった…そんなふうに言えないだろうか。
 直接的に「よさ」「素晴らしさ」をいうのではなく、少し否定的な、逆説的なニュアンスを込めてみた、というような見方もできるか。

 と、読み進めて「方言」を扱ったところで、この「やばい」と同様に使われる山形の方言があると書かれてあった。

 「やんだぐなる」…隣県なのでもともとの意味はわかるが、これが「やばい」と同じ用法で使われるとなると…「感動をうまく表現できない」という所に通ずるだろうか。

 では、わが秋田では…。該当する言葉はまだ流行って?いない。

 いや、昔から「こてぁられねぁ」という誉め言葉があったではないか。

 そして、それは「こたえられない」ということではないか。

 そうだ、結局「やばい」も「やんだくなる」も、「こたえられない」つまり我慢できない状況の一歩手前の言語化なのだ。


 かなり「適当」な見解であった。