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ゴドからゴミのような話

2015年11月25日 | 雑記帳
 昨日職場で学校田のことを話していたら、同僚の一人が「ゴド、ナゲラレテいるところがある」といったことを口にした。「ナゲラレル」というのは「捨てられる」の方言である。まだ一般的に使われている。問題は「ゴド」。もう十年、いや十数年は耳にしていないかもしれない。想像できるだろうが「ごみ」のことだ。


 夕食時に家人にそのことを言ってみた。同世代の話題として方言ネタは鉄板なので、盛り上がった。すぐに愛読書『秋田のことば』を調べず、しばしビールのおつまみとして話す。「ゴドのドは、土と書くのかな」などと変なことを言う。そういえば昔は、ごみと言ってもみんな土に還るものばかりだったことに気づく。


 「誤土かなあ」と想像するのは楽しいが、単なる当て字だろう。それなら「護土の方がいい」などと応戦しつつ、その発想はかつて「ごみ」は「護美」と何かのCMで使われたことに気づいた。ここで語源を求めて『秋田のことば』を開く。357ページ、ナニナニ「ごど」…「ごみ」。それだけかいっ!がっかりだよ。


 他に手がかりになる言葉もなさそうだ。仕方ないと、本家の「ごみ」を電子辞書で調べる。三種の辞書を比較すると、少し面白いことに気づいた。漢字は「塵・芥」とどれも同じであるが、「自然にたまるきたないもの。ほこり。また不要になって捨てられるもの」とふだん通用する意味のみ記述しているのは明鏡だけだ。


 広辞苑と日本国語大辞典には、最初に「水の中に浮遊したり、水の底に沈殿したりしている泥」を挙げる。それから「その場所を汚している、役に立たないもの」と続く。なるほど、ごみの始まりは泥か。ごみの別名としては「ちり」「あくた」「かす」「くず」などがある。「きたない」という共通点で括るのだろうか。


 ブリタニカも面白い。「(略)今日ではそのものが製品や資源として価値を持っていても、所有者にとって不要となり、所有する意志を放棄したものがごみであると考えられている」消費社会の拡大が廃棄物を増やしたように、地球や人間社会も、特定の誰かを「ごみ」と名付けたり指さしたりしてはいないだろうか。