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表現の水面下にある八分の七

2015年11月18日 | 雑記帳
 三十数年前に地元で臨時講師となり、その7月に町の総合研究会で授業を公開した。
 その姿を見てなのか、ただ単に若い教員が欲しかったのだろうか、翌春採用試験に合格し任用になるとき、4校からお声がかかったという。
 そんな話を当時の町教育長や採用時の校長から聴いたことがある。

 お声をかけてくださったお一人のI校長先生を時々思い出す。

 所属した国語教育研究会の会長でもあった。
 博学にして毒舌、眼鏡の奥から本質をえぐり出す問いかけをされた。
 何の機会だったろう、ご自宅に招かれた時があり、その蔵書の多さに圧倒された記憶もある。

 実は現在私が勤めている学校の校長も務めておられ、この学校で退職なされている。
 書棚の整理をしていたら、学校文集が出てきて、I先生の巻頭言に思わず読み入ってしまった。

 昨日は郡市文集の審査会があったので、開会の挨拶でそのことにふれ、I先生の言葉を紹介した。
 
 復習の意味で再録してみる。


 作文は、学校の生活文化として、その学校の一つの水準をあらわす傾向をもつ。とともにその学校における子供一人一人がもつ学力を主とした生活力の総体の意味をもつ。さらには、子供とともに在る職員集団の一般的教養、専門的教養を土台としての教育に対する知見を表現しているとも言えよう。
(中略)
 いずれにせよ、子供一人一人が自ら学習にとりくみ、それぞれの段階に応じて、読み、書き、数えるなどの学力、内にたくわえた知識とか感情を表現する学力、自ら思う方向に体をきたえ、支配する学力などを、より強く、深く、厚くするための飛翔にこの文集を役立てたい。
 作品は、いわば氷山の一角のようなもの、その八分の七は水面下にあって動いているもの―――そこにこそ目をと、復刊二号の言辞とする。



 格調高い文章だ。同じ年代になった自分がこんなふうに書けないことに苦笑してしまう。
 と同時に、不変的な教師の役割ということに目を向けざるを得ない。

 表現の水面下にある八分の七の見極めを忘れてはいけない。