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授業観が形成されていくこと

2015年11月21日 | 読書
 『授業づくりの発想』(藤岡信勝 日本書籍)というおよそ30年前の本を書棚から取って読み始めた。正直、こんなにしっくりと今の自分に入ってくるとは思わなかった。この頃、正面きった教育書?にはとんとご無沙汰で、自分の意欲減退をひしひしと感じていたが、なんだか少し元気が出てきたような気がする。

 まえがきにおいて、大きな結論を述べている。


 授業づくりにおいて、教師は、まずレベルの異なる次の四つの問題領域を自覚的に区別するべきである。
 ①教育内容(何を教えるか)
 ②教  材(どういう素材を使うか)
 ③教授行為(子どもにどのように働きかけるか)
 ④学習者(それによって子どもの状態はどうなるか)

 これをもとにしながら、「教育内容」と「教材」の異同をはじめとして、実践例や日常事項を譬えとしながら、話を進めている。
 かなり基礎的な事項であるが、ふむふむと読み進めて、やはり自分の関心の多くは「教授行為」ということに気づく。


 ある勉強会の例を紹介して、子どもがのってこなかった状況をこんなふうに表現している。

 教えられてしまうことはつまらないことなのである。


 いくら優れた教材、教具が準備されても、適切な教授行為に載せられなければ、効力感は低いだろうし、結果学力に結びつかない例は数多ある。
 アプローチの段階で、どのようなレベルで「教える」か、またどこで「考え」させ「調べ」させるかの選択することは、授業観そのものである。
こうも書いている。

 教師の授業観は、むしろその教師の教授行為を見ることで明らかになることが多いのである。


 共感できる。
 「自覚的な授業行為」(正確な表現かどうか自信はないが)を強調したのは、上條晴夫先生だったと思うが、それをいつまでも自分が持ち続けているのは、きっと教師が自らの「授業観」を反映させているかどうかに関心があるからだ。

 そしておそらく「授業観」は初めから確固たるものがあるわけでなく、子どもとの授業の中で、教職のキャリアのなかで培われ、形成されていく。

 その変容の有様に興味を抱いているのだろう。
 自分自身をまったく棚上げしているわけではないが、今は分析のほうにより興味が湧いている。


 ところで、30年前にはどんな読み方をしていたのだろうか。
 ちょっと想像できない。