すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

苦悩する往復運動

2015年11月08日 | 読書
 【2015読了】112冊目 ★★★
 『談志が死んだ』(立川談四桜 新潮文庫)


 広辞苑によると「小説」の意味①は「市中の出来事や話題を記録したもの」とある。②として「作者の想像力によって構想し、または事実を脚色する叙事文学」が出てくる。自伝的小説という言い方もあるし、実録小説もあるので、この著はその部類と言える。いずれ作者から見た「立川談志」の末期までが描かれる。


 テレビ世代と称される年齢なので、立川談志が『笑点』を仕切っていた頃のことはよく覚えている。当時のことも記されていて、小円遊との確執の部分など非常に興味深く読んだ。ゴシップ記の要素もあるが、落語家、芸能人としての苦悩が赤裸々に出ている気がして、ふだん知り得ない部分が掘り起こされた著だ。


 談志が「小説はおまえに任せる」というほどの文才の持ち主は、言うなれば絶えず苦悩している印象をうける。談志によって落語に目覚め弟子入りし、文壇的なつき合いを知る中で筆を磨いていったのだが、そこには必須な内省力が備わっていたのだろう。だから、談志との末期における関わりをこんなふうに描ける。


 あとがきで書評家がこう書く。「小説家であるために重要な魂の護持と、落語家であるために必要な情の間で苦悩し、表現を磨き上げた結果が作品として残ったのである」。この表現から、職業に就きながら小説を書く場合のある面の普遍性が導きだせると思った。魂と現実の間を苦悩する往復運動が核なのだ。


 作者の場合、その核を刺激するのが「談志」であり何者にも変え難いパーソナリティである。壮絶な生き方の典型という言い方は不遜だが、人生をそんなふうにしか生きられない哀しみの塊のようだ。少し似た方々を身近に思い出す時がある。みんな鬼籍に入られた。切なく思えてくるのは晩秋のせいだけではない。